第5章 心の尖にいる女性
しょせん、中村健の心を射止めた女は鈴木南なのだ。
離婚してこそ、彼女を一日も早く娶ることができる。
だから、彼はこれほどまでに焦っている。
五年もの間、必死に維持してきた結婚生活は、鈴木南の一瞬の微笑みにも及ばない。
中村七海は思わず身を震わせたが、振り返ることはなかった。
その声は平坦で、何の感情の起伏もなく、ただ一言、淡々と吐き出された。
「ええ」
そう言うと、彼女はもう足を止めることなく、佐藤奈須と肩を並べて去って行った。
彼女は、少しの未練も見せず、これほどまであっさりと立ち去るのか?
中村健の心に、一抹の寂しさがよぎった。
あるいは、彼女もまた、この結婚を早く終わらせたがっていたのだろうか?
それとも、本当に次の身の振り方を決めていたのか?
彼は呆然と二人の去りゆく背中を見つめ、しばらく動けずにいた。
「健兄、ちょっとお腹空いちゃったな。何か食べに行かない?」
彼女の甘えた声が、彼を現実に引き戻した。
中村健は腕時計に目をやり、眉をひそめた。
「これから会議があるんだ。また今度にしよう」
なぜか、中村健の態度はどこか気だるげだった。
病院で午前中いっぱいを費やしたため、会社にはまだ多くの仕事が残っている。
鈴木南は素直に頷き、唇を結んで微笑んだ。
「南は健兄の言う通りにするわ。途中で何かお弁当でも買いましょう。美味しいお店を知ってるの。会社に戻る途中でちょうどいいわ」
中村七海と佐藤奈須もまた、道すがら簡単な食事を済ませ、急いで会社に戻った。
中村七海のオフィス内で、佐藤奈須は手にした書類を彼女に差し出した。
「これが以前の契約書だ。もう一度目を通すかい?」
何しろ、彼女はついさっき怪我をしたばかりで、気分も優れないはずだ。
いずれにせよ契約書はここにあるのだから、彼はサインを急ぐつもりはなかった。
「いいえ、今見ます」
中村七海は全く意に介さなかった。彼女は契約書を受け取ると、一枚一枚丹念に目を通していく。
仕事は仕事だ。彼女は決して私情を仕事に持ち込むことはない。
でなければ、中村グループのような優勝劣敗の企業で、六年もの間やってこられたはずがない。
この六年間、彼女は真摯に仕事に打ち込み、会社のためにほとんど全ての時間と精力を捧げてきた。
ふと、彼女は顔を上げ、一箇所を指差して言った。
「ここの記述は不適切ではありませんか。貴社は中村グループが必要とする物資を速やかに提供するとしか書かれていませんが、具体的な期限がありません。もし貴社が一年間その物資を調達できなかった場合、私たちは一年待たなければならないということですか?」
彼女は一目で書類の抜け穴を見抜いた。
この書類通りなら、相手方は納品をいくらでも遅らせることができ、中村グループには何の対抗手段もない。その結果、供給に問題が生じ、会社の生産が遅れれば、その損失は計り知れない。
「私の考えでは、ここは一ヶ月の期限を設けるべきです。もし一ヶ月の期限を過ぎても貴社が納期通りに納品できなかった場合、規定に従い三倍の賠償をしていただくことになります」
佐藤奈須は苦笑し、中村七海に親指を立てた。
「中村七海、あんたはたいしたもんだよ!あんたのような卓越した能力がなければ、今日の中村グループの隆盛はなかっただろう。あんたと山下真衣は、まさに中村グループの黒白無常だな」
中村七海は淡く微笑み、書類を押し返した。
「佐藤社長、お手数ですが修正してから再度お持ちください」
彼女は少し考えてから、付け加えた。
「この件が片付いたら、必ず佐藤社長をお食事にお誘いします」
佐藤奈須はOKのジェスチャーをした。「問題ない。必ず君の要求通りに仕上げるよ。もちろん、美女との食事は、俺の誉れだ」
彼は立ち上がり、中村七海にウィンクしてみせた。相変わらずの飄々とした態度だ。
「美女に何かあったら、いつでも俺を頼ってくれ。俺の電話は、二十四時間あんたのために開けておくからさ」
そう言い残し、佐藤奈須はドアを開けて去っていった。
オフィスは静けさを取り戻した。
中村七海は一番上の書類を手に取り、パソコンにデータを入力し始めた。
夜になるまでかかって、ようやくそれらの書類を処理し終えた。
会社にはもうほとんど人が残っておらず、一部の社員が残業しているだけだった。
中村七海が出てくるのを見て、誰かが声をかけた。
「中村さん、まだお帰りじゃなかったんですか?」
中村七海は痛むこめかみを揉みながら、微笑んだ。
「私はもう上がります。皆さんは?」
彼女の声は穏やかで、口調は親しげだった。
これらの従業員は皆、会社の一員であり、彼女は彼らを家族のように思っていた。そうすることで、会社はより結束力を増すのだ。
それゆえに、彼女は社内で大きな影響力を持っていた。
中村健はただ決断を下すだけで、こうした管理には一切関心を示さない。
「私たちはもう少しやります」
「お疲れ様です!」
中村七海は非常に丁寧に言った。
多くの場合、彼女がこうしたことを言うのも、するのも、ただ会社のためなのだろうか?あるいは、もっと中村健のためだったのだろうか。
ただ、彼女がこれほど尽くしても、中村健は感謝しているようには見えなかった。
わけもなく、彼女の心に冷たいものが走った。
エレベーターを降り、中村七海は車に乗り込むと、まっすぐ自分の住まいに戻った。
彼女には自分の家があるので、彼らの新居に住む必要はない。
それに、今の中村健は彼女がそこに住むことを望んでいないだろうと、彼女は思った。
疲れ果てていた。帰宅後、彼女は何も考えず、急いでシャワーを浴びるとベッドにもぐりこんだ。
続けて数日、中村健は仕事に忙殺され、離婚協議書のことをほとんど忘れていた。
会社の社長として、彼が多忙を極めるのは確かだった。
中村七海はむしろ、その忙しさを幸運に思った。もしこのまま引き延ばすことができれば、彼らは離婚しなくて済むのではないだろうか?
それから五日後、彼女が仕事から帰宅した時、込み上げてくる吐き気に襲われた。胃から何か酸っぱいものが逆流してきそうだ。
彼女は壁に手をつき、しばらくえずいたが、何も吐き出すことはできなかった。
会社の仕事で忙しく、一日三食が不規則なため、彼女は頻繁に胃痛を起こしていた。
また胃の調子が悪くなったのだろうか、と彼女は思った。
その時、バッグの中の携帯電話がけたたましく鳴り響いた。
吐き気は少し収まっていた。彼女は携帯を取り出して番号を見ると、中村健からだった。
「どこにいる?」
電話に出るやいなや、相手の声が早口で飛んできた。
一秒待つのすら時間の無駄だと言わんばかりに。
「私の家にいます」
彼女ははっきりと、特に『私の家』という言葉を強調して言った。
「別荘に来い。ついでに離婚協議書にサインしろ」
彼の口調は有無を言わせぬもので、彼女の意思を尋ねるのではなく、ただ命令を下すだけだった。
「わかったわ」
彼女の口調は淡々としており、そのまま電話を切った。
彼にもようやく時間ができたのだ。
今日で、終わりを迎えるのだろうか?
彼女の心臓が思わずきゅっと痛んだが、向き合わねばならないことからは逃げられない。
彼女は立ち上がり、ドアを開けて外に出た。
すぐに、彼女は別荘に着いた。
この別荘は彼らの新居であり、ここで五年の歳月を共に過ごした。
彼女が入っていくと、中村健はすでにどっしりと腰を下ろしていた。
彼女が歩み寄ると、テーブルの下に置かれた数枚の離婚協議書がちらりと目に入った。
『離婚協議書』という大きな文字が、ひどく目に刺さる。
彼女が彼の向かいに腰を下ろし、その協議書を手に取ってサインしようとしたまさにその時、中村健が冷ややかに口を開いた。
「明後日は祖父さんの誕生日だ。一緒にプレゼントを選びに行くぞ」
この数日仕事に追われ、彼女は明後日が祖父の誕生日であることをすっかり忘れていた。
中村哲は彼女にいつも良くしてくれ、とても気に入ってくれていた。例年、祖父へのプレゼントは彼女が自ら選んでいた。
中村七海は頷いた。「いいわ」
「今まで通り、俺と一緒に参加してもらう。離婚のことは、まだ祖父さんには言いたくない。高齢だから、あまり刺激したくないんだ」
「問題ないわ」
彼女の返事はきっぱりとしており、反論はなかった。
彼女は、いくらかの幸運を感じていた。
もし明後日が祖父の誕生祝いなら、少なくともこの離婚協議書に今日サインする必要はないのではないだろうか?
彼がもう何も言わないのを見て、彼女は立ち上がった。
「他に何か用はありますか?」
その時、中村健はあの離婚協議書を引き出し、テーブルの上に置いた。
「ここへ何をしに来たか忘れたのか?」
