第4章 池下誠は彼女を愛していない

桜井美也は知らなかった。道村彩音が彼女が資料を持って出て行くのを見て、冷たい笑みを浮かべていたことを。

会社に着くと、桜井美也は左手で資料を池下誠に渡した。右手は怪我をしていて、まだ処置ができていなかった。

池下誠は資料を受け取り、確認すると顔色が一変した。

「桜井美也、どういうことだ?これは会議に必要な資料じゃない!会議はもうすぐ始まるんだぞ。この会議がどれだけ重要か、わかっているだろう?」

「そんなはずは…」桜井美也の顔が真っ青になり、資料を何度も見直した。

資料は確かに間違っていた。しかし、彼女は確かに確認したはずだった。どうしてこんなことに?

「申し訳ありません、社長、私…」桜井美也は頭痛がひどく、意識が朦朧としていた。

彼女が説明する前に、優しい声が聞こえてきた。

「誠、久しぶりね」

桜井美也は呆然とし、道村彩音が優雅に池下誠の前に歩み寄るのを見つめた。

「どうしてここに?」池下誠は驚いた表情を見せた。

「実は、池下家に行ったの。ちょうど美也さんが資料を取りに帰っていたのね。彼女が出て行った後、家に資料が一部残っているのを見つけて、必要かもしれないと思って会社に持ってきたの」道村彩音は柔らかく説明した。

池下誠は道村彩音から資料を受け取り、確認して軽く頷いた。

「この資料がちょうど必要だった。持ってきてくれて助かったよ、ありがとう」

桜井美也は信じられない表情を浮かべた。

道村彩音が持ってきたのは、まさに彼女が必要としていた資料だった。

突然、桜井美也の心に恐ろしい考えがよぎった。

もしかして、道村彩音が故意に彼女の資料をすり替えたのでは…?でも、なぜそんなことを?桜井美也を池下誠の前で失敗させるため?そして、道村彩音が助けに現れて、池下誠の好感を得るため?

桜井美也はますます不安になり、直感的に道村彩音がただ者ではないと感じた。

「身内なんだから、そんなに気を使わなくてもいいのに」道村彩音は理解ある笑みを浮かべた。「誠、実は、話したいことがたくさんあるの…」

「昔、何も言わずに去ってしまってごめんなさい。今、戻ってきたの…」

「会議がすぐに始まるから、話は後にしよう」池下誠は彼女の言葉を遮り、腕時計を見た。

道村彩音の顔が一瞬固まった。

「じゃあ、仕事に戻ってね、誠」彼女は近づいて、彼のネクタイを整えた。

桜井美也はその場に立ち尽くし、彼らの親密さを見て胸が痛んだ。

池下誠は彼女の夫なのに、今この瞬間、彼女が余計な存在のように感じた。

彼女は突然、自分が滑稽に思えた。まるで完全なピエロのように。

池下誠は道村彩音を軽く押しのけ、彼女の手の傷に気づいて眉をひそめた。「清水、彼女の手の傷を処置してくれ」

桜井美也は自分の右手を見て、まだ血が滲んでいるのを確認し、苦笑した。

道村彩音はガラスの破片で軽く切っただけなのに、彼女の傷はそれよりもずっとひどかった。

池下誠は道村彩音をとても気にかけていて、彼女が少しでも傷つくと心配する。

でも、桜井美也は彼の心の中で何の存在でもない。

桜井美也の目が少し潤んだ。彼女はしばらく呆然としていたが、会議が始まることを思い出し、池下誠について行こうとした。彼の秘書として、彼の仕事をサポートするのは当然のことだった。

しかし、彼女がついて行こうとした瞬間、池下誠に止められた。

「今日は調子が悪いみたいだ。帰って休んで、会議には出なくていい」

桜井美也はその場に立ち尽くし、しばらく動けなかった。

池下誠が遠ざかるのを見送りながら、彼女は呆然と「わかりました」と答えた。

これからは、池下誠には彼女が必要ないのだろう。生活でも、仕事でも。

桜井美也はその場に長い間立ち尽くし、彼女と池下誠の過去が頭の中で再生された。道村彩音が肩を叩くまで、彼女はようやく我に返った。

「美也さん、手も怪我しているのを覚えているわ。処置しに行きましょう」彼女は親切そうに言った。

「大丈夫です、帰って休みます」桜井美也は丁寧に断った。

彼女はふらふらと会社を出て、ぼんやりと家に帰った。

道村彩音は彼女の惨めな背中を見つめ、口元に笑みを浮かべた。

すべてが彼女の予想通りに進んでいる。

池下誠がまだ彼女を愛していることがわかる。

桜井美也のことなんて、池下誠は見向きもしないだろう。

……

池下家に戻ると、池下平子が彼女の失意の表情を見て、冷たく嘲笑った。「会社に資料を届けに行ったんじゃないの?どうしてそんなに落ち込んでいるの?」

桜井美也は心身ともに疲れ果てていて、彼女と口論する気力もなく、部屋に戻ろうとした。

「待ちなさい!」池下平子は彼女の髪を引っ張り、「私が話しているのに、聞こえないの?」

「そんな態度を続けるなら、誠に離婚させるわよ!」

「放して」桜井美也は痛みに耐えながら、彼女の手を振りほどき、冷淡に見つめた。「お母さん、どうぞご自由に」

「どうせ、私たちの結婚は長く続かない」

そう言って、桜井美也は部屋に向かって急いだ。

池下平子は彼女の背中を見送りながら、罵り続けた。

「この桜井美也、本当に理解不能だ!誠がどうしてこんな女と結婚したのかしら?」

「その顔を見るだけで腹が立つ!」

「見てなさい、誠は必ず離婚するわ!」

その辛辣な言葉はもう桜井美也の心を揺るがすことはなかった。彼女はただ黙って部屋に戻り、椅子に座って長い間ぼんやりとしていた。

机の上には池下誠の写真が置かれていた。彼女はそれを手に取り、彼のハンサムな顔を見つめながら、涙が止まらなかった。

彼らの結婚は、すでに枯れ果てた木のように、もう一片の生気もない。

彼女は何を未練に思っているのだろう?

池下誠は一度も彼女を愛したことがないのに。

涙が手の傷口に落ち、強い痛みが走ったが、桜井美也はそれに気づかず、ただ呆然と座っていた。まるで操り人形のように。

……

池下誠が会社から帰宅すると、池下平子が彼を捕まえて文句を言い、桜井美也を非難するのを忘れなかった。

「美也は?」池下誠は尋ねた。

「部屋にいるわ」池下平子は冷笑した。「今日帰ってきてからずっと冷たい態度を取っているの。まるで自分が何か特別な存在だとでも思っているのかしら?」

「見てくる」池下誠はまっすぐ部屋に向かった。

部屋のドアを開けると、中は薄暗かった。

桜井美也は電気をつけず、遠くにぼんやりとした人影が見えた。

池下誠は彼女に近づき、椅子から引き上げた。

「桜井美也、最近どうしたんだ?仕事で頻繁にミスをして、休暇が必要なのか?」

「お帰りなさい」桜井美也は感情を整え、「申し訳ありません、今後は気をつけます」

彼女は何も説明したくなかった。もし彼女が今回の資料のミスが道村彩音の仕業だと疑っていると言ったら、池下誠は信じてくれるだろうか?

彼は道村彩音の側に立つだけだろう。

池下誠は桜井美也の冷淡な態度を見て、何事にも関心を持たないように見える彼女に、なぜか心がざわついた。

彼は彼女を放し、ふと彼女の右手に触れ、異様な感触を感じた。

「手はどうした?」池下誠は尋ね、その声には自分でも気づかないほどの心配が含まれていた。

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