第1章

「ママ、痛いよ……!」

娘の光が、意識も朦朧とした中で苦痛に顔を歪めている。その姿を見て、水無瀬柚季の心は鋭利な刃物でえぐられるように痛んだ。

病院の廊下。

柚季は親友の雨宮澪から渡された五万円を受け取り、苦渋に満ちた笑みを浮かべた。

「このお金、なるべく早く返すから」

今、彼女に手を差し伸べてくれるのは澪だけだ。他の人々は皆、疫病神でも見るかのように彼女を避けている。

なぜなら、鷺沢雪紘が彼女を憎んでいるからだ。誰もが鷺沢雪紘を恐れ、彼女を助けることで彼に目を付けられるのを怖がっているのだ。

そう思うと、柚季の顔には自嘲の色が浮かんだ。

今の境遇は、すべて自業自得だ。彼女自身は後悔していない。だが、光まで巻き添えにして苦しめるべきではない。

「焦らなくていいわよ。まずは光ちゃんの病気を治すのが先決だもの」

光は急性胃腸炎を患っており、入院した途端、湯水のようにお金が消えていった。

澪もまた、苦しい立場にあった。

「パパに銀行口座を全部凍結されちゃって……。明日、実家に帰ってバッグをいくつか売ってくるわ。そうしたらまたお金を持ってくるから」

「いいの。もう十分助けてもらったわ」

柚季は首を横に振った。

水無瀬家は没落し、莫大な借金を背負った。

祖母は高齢で、父は度重なる打撃に精神を病み、寝たきりになっている。毎月の医療費だけでも馬鹿にならない。

弟と光の学費も必要だ。

それに一家全員の食費、家賃……。

自分自身が泥沼にいるのに、これ以上親友を巻き込むわけにはいかない。

鷺沢雪紘はもう、昔の彼ではない。

六年前、法廷で彼女が「鷺沢雪紘こそが殺人犯だ」と証言したあの瞬間から、二人の関係は修復不可能になったのだ。

あの夜――。

父の水無瀬陽介は、自宅の屋上で取引相手の遠高大丈と口論になり、誤って彼を突き落としてしまった。

その後、警察の検死によって遠高大丈の体に争った痕跡が見つかり、他殺と断定された。傷跡から、犯人は身長一八〇センチ前後の男だと推測された。

法の裁きから逃れるため、そして一人息子を失った遠高家の報復を恐れた父は、使用人の息子に罪を被せようと画策した。水無瀬家の一族全員で口裏を合わせ、鷺沢雪紘を告発したのだ。

収監された雪紘は、頑として罪を認めなかった。

「あの日、俺は柚季と郊外のリゾートにいた! 翌日帰ってきたんだ。柚季の車にドライブレコーダーがあるはずだ、調べればわかる!」

水無瀬柚季は、鷺沢雪紘の潔白を証明できる唯一の人間だった。

だが……もし雪紘が無実となれば、罪に問われるのは父だ。

ましてや遠高家はJ市で絶大な権力を持ち、その勢力は根深い。もし遠高家の唯一の跡取りを殺したのが父だと知れれば……。

祖母、両親、そして弟……。

彼らがどうなるか、柚季は想像するだけで身震いした。

水無瀬家を守るため、彼女は涙を飲んで、最愛の人を刑務所へと送ったのだ。

最後に面会した日、雪紘の瞳からは愛の色が消え失せていた。ただ冷ややかに彼女を見つめ、胸元の服を引き裂いた。

本来なら彼女の似顔絵が彫られていたはずのその場所は、彼自身の手によって切り刻まれ、血肉が混じり合い、鮮血が滴っていた。

柚季は慌てて立ち上がり、弁解しようとした。彼の子を身籠ったことを伝えようとした。

けれど、どれだけガラスを叩いても、雪紘は決然と背を向け、冷淡な背中を見せるだけだった。

出所後、わずか三年足らずで、鷺沢雪紘は無名の起業家から鷺沢グループのトップへと上り詰めた。金融、飲食、不動産……その事業は多岐にわたり、今や国内屈指の巨大企業となっている。

柚季が何百通もの履歴書を送っても梨の礫で、最底辺の仕事すら見つからないのは、間違いなく雪紘の差し金だ。

雪紘は誰も彼女を助けることを許さず、仕事をさせることすら禁じている。

彼女の生きる道を、完全に断つつもりなのだ。

今では……雨宮家にまで雪紘の手が回っている。

澪の瞳に浮かぶ申し訳なさそうな色を見て、柚季は静かに言った。

「あなたが裏で私を援助していると知られたら、雪紘は雨宮家にも牙を剥くわ。私のために、おじ様を困らせないで」

「でも……いっそ雪紘に会いに行きましょうよ。光ちゃんのことに免じて、きっと見逃してくれるはずよ」

それが、澪に思いつく最善の策だった。

柚季もそう考えたことはある。

生活の重圧に押し潰されそうになるたび、金策に尽きて途方に暮れるたび……。

光の存在を知れば、雪紘は許してくれるだろうか?

眠れぬ夜を過ごしながら、何度も自問自答した。

答えは、否だ。

雪紘の中に、彼女への情など欠片も残っていない。彼は彼女を、水無瀬家を憎んでいる。

復讐のためなら、自らを傷つけてでも水無瀬家を潰そうとする男だ。もし光の存在を知られたら……。

彼は光を娘として認めるだろうか。

たとえ認めたとしても、自分の娘が水無瀬家で育てられることを許すはずがない。あらゆる手段を使って、光を彼女から奪い去るだろう。

澪を心配させまいと、柚季は努めて明るく振る舞った。

「安心して、仕事は見つかったの。すぐにお給料も入るから」

「本当に?」

澪は驚きの声を上げた。

柚季は頷いた。

隣のベッドに入院している女性は、酒の飲み過ぎで胃出血を起こし、数日前から入院していた。身寄りのない彼女を不憫に思い、柚季は光の看病の傍ら、彼女の世話もしていたのだ。

その女性が柚季の窮状を見かねて、仕事を紹介してくれた。

『ムーンライトラウンジ』での酒の売り子だ。

「あそこの給料は日払いなの。基本給はないけど、見栄っ張りの成金に当たれば、高級洋酒を一本入れてもらうだけで数千円から数万円のバックが入るわよ!」

バーのような場所は玉石混交だ。以前の柚季なら、見向きもしなかっただろう。

だが、今は違う。

今の彼女に、仕事を選り好みする資格などない。

金だ。ただ金が欲しい。

「お店とは話がついたわ。今日から働くことになったの。悪いけど、光のことお願いできる?」

「今日? 今から?」

澪は時間を見て仰天した。

「夜の九時から始まる仕事なんて……柚季、まさか」

「もう行かなきゃ。あとで説明するわ」

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