第4章
榊原柚葉視点
榊原邸に戻る道中、私は婚約破棄を成功させた高揚感にまだ浸っていた。榊原奏の手は私の手の中にあり、それが圧倒的な安心感を与えてくれた。
だが、玄関の扉を開けた瞬間、何かがおかしいことに気づいた。
居間には家族全員が集まっていた。この時間なら書斎に籠っているはずの養父、榊原彰人までいる。彼らの表情は普段になく険しく、まるで何か重大な発表を待っているかのようだった。
「柚葉、戻ったのね」
榊原莉奈が立ち上がり、その声は目に見えて強張っていた。
「座りなさい。あなたに伝えなければならない大切な話があるの」
榊原奏もその緊張を察したのか、眉をひそめた。
「今日はお前たちに紹介したい人がいる」
榊原彰人が咳払いをし、私が今まで聞いたこともないほど真剣な声で言った。
「榊原家の実の娘――榊原栞奈だ。ようやく見つかったんだ」
血の気が引いた。
父が言い終わる前に、居間の脇にある扉が開いた。見慣れた人影が、優雅な足取りで入ってくる。
あの女だ! 宴会で高遠陽仁といちゃついていた女!
最初は同じ名前なのは偶然だと思っていたけれど、まさか……。
榊原栞奈はオフホワイトのドレスをまとい、長い髪を肩に流し、完璧な化粧を施していた。その足取りは軽やかで優雅、顔には穏やかな笑みを浮かべている――先ほどの化粧室での態度とはまるで別人だった。
「お父様、お母様」
榊原栞奈の声は甘く澄んでいて、榊原彰人と榊原莉奈に歩み寄った。
「このお家が、本当に恋しかったですわ」
榊原莉奈が駆け寄って彼女を抱きしめた。
「私の可愛い娘、やっと帰ってきてくれたのね!お母様、この日をずっと待っていたのよ!」
私は完全に呆然と立ち尽くしていた。養子であることはずっと知っていたけれど、実の娘をこんなに急に迎え入れるなんて一度も聞いたことがなかった。さらに悪いことに――その実の娘が、高遠陽仁と関係を持っていた女だなんて!
【マジかよ! 高遠陽仁の浮気相手が本物の令嬢だったとは】
【これは修羅場の予感】
【あんたの居場所を奪いに来たんだ】
謎のコメントが再び現れ、稲妻のように視界を横切っていく。その一つ一つが、私の最悪の恐怖を裏付けていた。
「私が養子であることは存じておりました」
私はなんとか声を震わせないように言った。
「ですが、このような状況で実の娘さんにお会いするとは、思ってもみませんでした」
榊原栞奈が私の方を向き、その深い瞳に読めない光をちらつかせた。彼女は一歩一歩、まるで縄張りを主張するかのように私に近づいてくる。
「お姉様」
その声は柔らかかったが、私はその奥に隠された嘲りを感じ取った。
「高遠様のこと、本当に申し訳なく思っておりますわ」
「申し訳ない?」
私は乾いた笑いを漏らした。
「私の婚約者と寝ておいて、申し訳ないですって?」
榊原栞奈は天使のように純真な表情で、無垢に瞬きをした。
「高遠様と私は真実の愛で結ばれておりますの。それに……」
彼女は一旦言葉を切り、居間全体を見渡した。
「私がこの家の、本当の娘ですもの」
その言葉は、腹に一発食らったような衝撃だった。自分の立場は常に分かっていたつもりだったが、榊原栞奈が目の前にいるという事実が、完全に取って代わられるかもしれないというパニック――恐怖の波を引き起こした。
【宣戦布告だ!】
【こいつには気をつけろ!】
コメントシステムが狂ったように流れ、一つ一つの警告が危険を叫んでいた。
「栞奈」
榊原彰人の口調が和らいだ。
「ずっと辛い思いをしてきたんだろう。今日から、ここがお前の家だ」
榊原莉奈は栞奈を強く抱きしめ、涙を流した。
「可哀想に、私の娘。何年も外で苦労させてしまって、本当にごめんなさい」
この感動的な母娘の再会を目の当たりにして、私はかつてないほどの疎外感を覚えていた。
榊原莉奈の腕の中から、榊原栞奈の視線が母親の肩越しに、まっすぐ私を射抜いた。その瞳は、勝ち誇ったような満足感と、純粋な悪意に満ちていた。
不意に、榊原奏が私の手を強く握りしめた。
「いずれにせよ、柚葉もこの家の家族です」
榊原栞奈は榊原奏に目をやり、その瞳に何かを計算するような光が閃いた。
「お優しいのですね。でも……」
彼女の笑みはさらに甘くなった。
「家族は、家族ですものね?」
ー
夕食の席は、さらに緊張感を増していた。
食事の間中、榊原莉奈は榊原栞奈につきっきりで世話を焼いていた。
「可愛い子、これまで本当に辛い思いをしてきたでしょうね。これからはお母様が全部埋め合わせをしてあげるから。何が欲しい? 欲しいものは何でも言ってちょうだい」
「大丈夫ですわ、お母様」
榊原栞奈は手慣れた優雅さで言った。
「お家に帰ってこられただけで、私はもう十分です。物質的なものは何も望みません。ただ家族と一緒にいられるだけで、幸せですわ」
榊原莉奈が私に目を向けると、その口調は目に見えて冷たくなった。
「柚葉、あなたも栞奈さんを見習いなさい。あの子がどれだけ思熟慮深いことか。それに比べてあなたはいつも……」
彼女は最後まで言わなかったが、その意味は痛いほど明らかだった。
こみ上げてくる怒りを抑えようと、私はフォークを強く握りしめた。
榊原栞奈が、見せかけの心配を浮かべた表情で私を見た。
「お姉様、今日の婚約破棄は、本当に勇気のあるご決断でしたわね。また独り身に戻られたことですし、そろそろ一人暮らしをお考えになってはいかが? 若いんですもの、自立することも大切ですわよね?」
【こいつ、あんたを追い出す気だ!】
【養父母はもう寝返ってる】
【この家にあんたの居場所はなくなるぞ】
コメントが警報のように点滅する。
「栞奈、柚葉は家族だ」
榊原奏が、明らかに苛立った様子で眉をひそめた。
榊原栞奈は甘く微笑んだ。
「ええ、もちろん。ただの提案ですわ。だって、このお家も少し……手狭になってきましたから」
彼女はわざと間を置き、辺りを見回した。
「こんなに広いお家ですもの、きちんと……きちんと整理が必要ではございませんか?」
「手狭」という言葉を発した時、彼女の目は私を射抜いていた。まるで私が、処分されるべき不要な荷物だとでも言うように。
榊原彰人が、思案顔で頷いた。
「栞奈の言うことにも一理ある。部屋の割り振りを見直すべきかもしれんな」
心臓がひゅっと縮こまった。
榊原彰人は続けた。
「栞奈はこれまで十分に苦労してきた。一番いい部屋を与えてやるべきだ」
「では、私の部屋は……」
私は恐る恐る尋ねた。
「お姉様の部屋は、もちろんお姉様のものですわ」
誰が答えるよりも早く、榊原栞奈が口を挟んだ。
「でも、私が戻ってきたのですから、少し……再配分するのはどうでしょう? 何しろ、私が『実の』娘なのですから」
彼女は「実の娘」という言葉を強調した。その一言一言が、ナイフのように私に突き刺さる。
【とんでもないことになるぞ】
【こいつはあんたの全てを奪う気だ】
【榊原奏も含めてな】
最後のコメントに、私ははっとして榊原奏に顔を向けた。彼の表情は複雑で読み取れず、そこには今まで見たことのない戸惑いが浮かんでいた。
「奏……?」
私はそっと彼の名前を呼んだ。
奏は私の視線を避け、ただ「その話は後でしよう」とだけ言った。
そのやり取りを、榊原栞奈は見逃さなかった。彼女は勝ち誇ったように笑みを深めると、言った。
「奏様。私たち、どこかでお会いしたことがありましたかしら?なんだか見覚えがあるような気がして。それに……」
彼女はわざとらしく間を置いた。
「私たち、きっととても仲良くなれそうですわ」
「会ったことはないはずだ」
奏の返事は素っ気なかったが、彼の視線が必要以上に長く栞奈の上を彷徨っているのに、私は気づいてしまった。
何かが、絶対におかしい。
【気をつけろ、こいつの狙いはあんたの立場だけじゃない】
【榊原家そのものを丸ごと手に入れるつもりだ】
コメントシステムの警告に、心臓が早鐘を打った。榊原栞奈の野望が、私の想像をはるかに超える大きさであることに、気づき始めていた。
榊原栞奈は優雅に立ち上がった。
「お母様、お父様、わたくし、少し疲れましたわ。お部屋で休ませていただいてもよろしいでしょうか」
「ええ、もちろんよ、可愛い子」
榊原莉奈がすぐさま心配そうに応じた。
「どの部屋がいいかしら?」
榊原栞奈の視線が、私と奏の間を行き来した。
「二階のお部屋がよろしいですわ。できれば……」
彼女は効果を狙って間を置いた。
「庭が一番よく見える、あのお部屋を」
それは、私の部屋だった。
「そこは柚葉の部屋だ」
ようやく、榊原奏が口を開いた。
「あら」
榊原栞奈は今初めて気づいたかのように言った。
「奇遇ですわね。でも、構いませんわ。交換すればよいのですから。だって……」
彼女は私に歩み寄り、耳元に顔を寄せた。私にしか聞こえないほどの低い声で囁く。
「――だって、元々私のものになるはずだったんですもの」
それから彼女はすっと体を起こし、皆に向かって甘く微笑んだ。
「おやすみなさい、家族の皆さん」
「家族」と言ったとき、彼女はわざと私を見た。その目ははっきりと告げていた。「あなたはここの人間じゃない」と。
第一ラウンドは、間違いなく榊原栞奈の勝利だった。







