第5章
榊原柚葉視点
午前二時。とっくに涙は枯れ果てて、私はベッドの端に腰掛けていた。
夕食の光景が、心を繰り返し切り刻むナイフのように脳裏で再生される。
榊原莉奈の榊原栞奈に対する優しさ、榊原彰人の溺愛ぶり、そして私に突き刺さった言葉――「だって、元々私のものになるはずだったんですもの」。
「この家にもう、私の居場所はないんだ」
私は誰もいない空間に向かって囁いた。
二十年。丸々二十年も!ここが私の家で、あの人たちが本当の両親だと思ってきた。それなのに?実の娘が帰ってきた途端、私は無価値な存在になるなんて。
私は怒りに任せて立ち上がると、スーツケースに手当たり次第ものを詰め込み始めた。
「みんなが私に出ていってほしいなら、出ていってやる!」
歯を食いしばると、再び涙が溢れ出してきた。
【早まらないで、お嬢さん】
【家出は解決策じゃない】
【お兄さんを待って】
忌々しいコメントシステムがまた現れたが、今回はどこか切迫した口調だった。
「私が家を出ようが出まいが、誰も気にしないわ」
私は涙を拭い、荷造りを続けた。服、化粧品、書類……持っていけるもの全てを、機械的にスーツケースに詰め込んでいく。
重いスーツケースを引きずり、私は抜き足差し足でドアに向かった。階段を一段降りるごとに、家を出るまでのカウントダウンのように感じられた。
ホールの薄暗い明かりが私の影を長く伸ばし、それがこの家に残す最後の痕跡のようだった。
ドアノブに手をかけた、その時だった。背後から深い声が聞こえた。
「こんな夜更けに、どこへ行くんだ?」
心臓が喉から飛び出しそうになりながら、私は勢いよく振り返った。書斎から出てきた榊原奏が、まだ書類を手にして立っていた。明らかに仕事をしていたのだろう。
薄暗い廊下の光が彼の顔に影を落とし、その表情をひどく読み取りにくくさせていた。
「私……ちょっと、外の空気を吸いに」
私は慌てて嘘をつき、スーツケースを背後に隠そうとした。
榊原奏の視線が私の背後にある荷物に落ち、彼の眉が深く寄せられた。
「スーツケースを持って散歩か?」
バレた。
【彼はあなたを待っていた】
【あなたが出ていこうとすることに気づいていた】
【あなたを行かせたくないんだ】
コメントシステムの指摘に心臓が早鐘を打つが、私は必死で平静を装った。
榊原奏が数歩近づいてくる。彼のかすかなコロンの香りが、書類のインクの匂いと混じり合った。
「榊原栞奈のせいか?」
その単刀直入な質問は針のように、私の最後の虚勢をいとも簡単に突き破った。涙が堰を切ったように溢れ出す。
「私なんて、この家ではもうお荷物なだけだから」
私の声は感情で震えた。
「実の娘が帰ってきたんだもの。偽物を置いておく意味なんてないでしょう?」
榊原奏は黙って私を見ていた。その瞳には、私には読み解けない感情が渦巻いていた。
「榊原栞奈はもう私の部屋から出ていけって言うし、お父さんとお母さんは明らかに彼女の方が可愛いのよ。それにあなただって……」
私は彼を見た。
「彼女に対して、どこか様子がおかしかったじゃない」
榊原奏はあまりに長く沈黙していたので、もう答えてはくれないのだと思った。
その時、彼は全く予期しない行動に出た――ソファまで歩いていくと腰を下ろし、隣のスペースを軽く叩いた。「こっちへ来て、座れ」
私はためらいながらも、スーツケースを引きずって彼の隣に座った。
「もし本当に出ていきたいのなら」
榊原奏の声は、私が今まで聞いたことがないほど優しかった。
「君にもっといい場所がある」
彼はポケットから、上品な鍵を一つ取り出した。キーホルダーには、小さな家の形のチャームが揺れていた。
「都心のマンションだ。君のために、用意しておいた」
私は衝撃で言葉を失った。月明かりに照らされた鍵が銀色に輝き、まるでありえない贈り物のようだった。
「いつの間に……どうして、こんなものを準備したの?」
私はようやく声を絞り出した。
榊原奏は私の視線を避け、窓の外を見ながら言った。
「いつか、君に必要になる時が来ると思っていた」
【彼は全て計画していたんだ!】
【これが愛だよ!】
【なんて思いやり深いの!】
コメントシステムが爆発し、一つ一つのコメントが目まぐるしく流れていく。心臓が破裂しそうなほど速く鼓動し、私の手は鍵を受け取る時、わずかに震えていた。
鍵は温かかった。まるで彼が長い間、手のひらで握りしめていたかのようだった。
「どうして、私にそんなに良くしてくれるの?」
私の声はかろうじて聞き取れるほど小さかった。
榊原奏はようやく私の方を向き直った。その眼差しは夜空のように深く、中に星々が瞬いていた。
「それは……」
彼は言葉を慎重に選ぶように間を置いた。
「君が、俺にとって大事な存在だからだ」
その言葉は、静かな水面に投じられた石のように、大きな波紋を広げた。今まで感じたことのない安心感が、体の底から手足の先までゆっくりと広がっていくのを感じた。
「大事?」
私はその言葉を繰り返した。
「それって……どういう『大事』なの?」
榊原奏は私をじっと見つめた。その瞳は、私の心を見透かしているかのようだ。空気中の緊張感が息苦しいほどだった。互いの距離はほんの数センチしかなく、彼の息遣いさえ感じられた。
「柚葉」
彼は私の名前を呼んだ。声が少し掠れている。
「話すには……まだ、早い」
その答えは私をさらに混乱させたが、同時に期待で胸を満たした。
私は鍵を強く握りしめ、その温かさを感じた。この小さな鍵は、私がかつて望むことさえ恐れていた、一つの約束のようだった。
榊原奏は立ち上がり、服の乱れを直した。
「あのアパートには全て揃っている。家具も、家電も、冷蔵庫には食べ物もな」
彼は一度言葉を切った。
「いつでも、帰ってきていい」
【彼は君が自分の気持ちを理解するのを待っている】
【これはただの兄妹愛じゃない】
【気づけよ、おバカさん】
榊原奏の去っていく背中を見つめながら、私の感情はぐちゃぐちゃに乱れていた。
「奏」
私は彼の背中に呼びかけた。
彼は振り返った。月明かりが彼の横顔を照らし、格別にハンサムに見せていた。
彼が私に抱いている感情は、本当にただの兄妹愛なのだろうか?私は自問した。
私たちは数秒間、視線を交わした。互いの間の空気に、緊張していながらも甘い、何か電気的なものが流れた。
「ありがとう」
それだけしか言葉にできなかったが、榊原奏には私が表現したいこと全てが伝わったように感じた。
彼はそれ以上何も言わずに頷くと、踵を返し、階段の方へ歩いていった。







