第3章

佐藤安奈は頷いて、彼が自分のことを知っていることに少し驚いた。彼女は早坂晋也に二度会ったことがある。高橋景一の異母兄だ。正確に言えば、高橋景一に関係することなら何でも気になっていた。

早坂晋也は幼い頃から持病を患っているが、ビジネスの才能は抜群だと聞く。

高橋家の命運は彼の手に握られており、家での地位は絶大だ。長男でありながら、なぜか早坂の姓を名乗っている。

その男は類まれな美貌の持ち主だが、冷たい眼差しは人を圧倒させる。佐藤安奈は少し不安を感じた。

学校で佐藤安奈はいつも注目の的だった。しかし、それは良い意味ではなく、高橋景一への執着が理由だった。前世の佐藤安奈は狂おしいほどの想いを抱いていた。その想いは、ただ一人の人物のために高鳴る——高橋景一だ。

高橋景一は学校の人気者だった。端正な容姿と才能で、数多くの女子の心を虜にしていた。そして佐藤安奈は、その中で最も熱狂的な存在だった。

出会った瞬間から、佐藤安奈は高橋景一の影に魅了された。彼女は何も顧みず追いかけ、制御不能な悪魔のように、少しでも彼に近づこうとし、その温もりを感じようとした。

「高橋景一、好きです!」佐藤安奈は群衆の中でそう叫び、周りから奇異な目と嘲笑を浴びた。

しかし、彼女は気にしなかった。心の中には高橋景一しかおらず、他のことは些細なことに思えた。

「ほら見て、佐藤安奈って本当に狂ってるわね!」周りの人々は囁き合い、指を指した。

けれども、そんな外からの声は佐藤安奈には何の影響もなかった。毎日飽きもせず高橋景一の情報を探り、彼の一挙手一投足に夢中だった。

「高橋景一、私の存在に気付いてくれるのかしら?」佐藤安奈は心の中でそっと問いかけ、奇跡を待ち望んでいた。

しかし、彼女の熱狂は高橋景一の心を動かすことはなかった。彼は相変わらず高みにいて、佐藤安奈とは遠く離れた存在のままだった。

ある日、見かねた早坂晋也が佐藤安奈にある事実を告げた。

「高橋景一は君のことなど眼中にない。君は彼らの笑い物でしかないんだ」早坂晋也の言葉は剣のように佐藤安奈の幻想を打ち砕いた。

涙を浮かべながらも、その残酷な現実を受け入れられず、自分の真心は必ず高橋景一に届くと信じ続けた。結局失敗に終わったが、早坂晋也が見せてくれた稀有な優しさは心に残った。

早坂晋也にとってはただの一言だったかもしれないが、佐藤安奈にとっては心打たれる温かさだった。ふと、佐藤安奈は思い出した。二年後、早坂晋也は病で若くして亡くなるのだ。

それを思うと、佐藤安奈の心はぎくりと痛んだ。完璧に近い横顔を見つめると、複雑な思いが込み上げてきた。

前世では佐藤家のことで頭がいっぱいで、早坂晋也がいつ亡くなったのか詳しくは知らなかった。後になって聞いた時は、しばらく惜しむ気持ちが消えなかった。

給水機を見て、早坂晋也の車椅子を見た佐藤安奈は、自ら水を注いだ。お湯を少し入れ、冷水で調節し、丁度良い温度を確かめてから彼に手渡した。

早坂晋也はコップを受け取り、淡々と言った。

「気を遣う必要はない。高橋景一のことは私には関係ない」

夕陽が沈みゆく中、病院の給水室は一層静かになり、給湯器の音と二人の呼吸だけが響いていた。佐藤安奈は心の動揺を感じながら、早坂晋也に心を開くことを決意した。

「早坂さん、以前、高橋景一のために多くを捧げましたが、結局彼はその価値がない人だと気付きました。もう誰かの盾にはなりたくありません。自分の自立と尊厳を取り戻したいんです」佐藤安奈の声には諦めと決意が混ざっていた。

早坂晋也は黙って聞いていた。彼の眼差しには深い感情が宿っていた。佐藤安奈の一言一句を静かに考え、彼女の本当の気持ちを理解しようとしているようだった。

早坂晋也は何も言わなかったが、佐藤安奈は彼の眼差しに今まで感じたことのない尊重を見出した。その尊重は清らかな泉のように、彼女の乾いた心を潤した。彼女は感謝の眼差しで彼を見つめ、その目に安らぎと頼もしさを見出したかのようだった。

「ありがとうございます」

早坂晋也の瞳には深い光が宿っていた。彼は佐藤安奈の心の強さと勇気を見出し、彼女への印象が静かに変化していった。

そしてついに退院の日を迎えた。

病院の正面玄関には、高級車が止まっていた。窓からは佐藤家の金色の紋章が輝いていた。佐藤健一と佐藤直樹はスーツ姿で車の傍らに立ち、佐藤レナの退院を待ち焦がれていた。

ついに、病院の扉が開き、淡いブルーのワンピースを着た少女が優雅に歩み出てきた。佐藤レナ、家族の宝物だ。佐藤健一と佐藤直樹は即座に駆け寄り、熱心に出迎えた。

「レナ、大丈夫?全部準備してあるから、早く帰ろう」佐藤健一は心配そうに尋ね、佐藤レナを家に送ろうとした。

その一方で、佐藤安奈は脇に置き去りにされ、誰からも気にかけられていないようだった。病院の玄関に静かに立ち、高級車が静かに去っていくのを見つめながら、心に寂しさと諦めが広がった。

まるで誰からも忘れ去られたかのように、一人で病院を出てタクシーを待っていた。

しばらくすると、黒い車が突然彼女の前に停まった。

思わず車内を覗くと、後部座席の窓がゆっくりと下り、深い眼差しを持つ男性の整った顔が現れた。表情は冷たく平静で、並々ならぬ雰囲気を漂わせていた。

早坂晋也は彼女を一瞥し、ゆっくりと言った。

「乗りなさい」

佐藤安奈は一瞬戸惑い、思わず「えっ」と声を漏らした。

男は眉をひそめ、淡々と言った。

「スカートに血が付いている」

その言葉を聞いた佐藤安奈は即座に頬を赤らめ、慌てて後ろを確認すると、青いスカートに確かに小さな赤い染みがあった。

九月とはいえまだ暑く、彼女が着ているのはこのワンピース一枚だけだった。

佐藤安奈は恥ずかしさで一気に赤面し、片手でスカートの染みを隠そうとしたが、それを早坂晋也に見られてしまい、地面に穴があれば入りたい気持ちだった。

早坂晋也の冷たい声が再び響いた。「乗りなさい」そのとき、運転手の樋口おじさんが車を降り、優しく微笑んで後部座席のドアを開け、佐藤安奈を招き入れた。

佐藤安奈も遠慮せず、恥ずかしそうに車に乗り込んだ。

しかし、シートを汚すのを恐れて座ることができず、

うつむいたまま、半しゃがみの姿勢で、無力で哀れな様子を見せていた。

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