第2章
野々村歩奈が通う聖マリアンヌ女学院に転入させられ、あろうことか同じクラスに編入された。
すべてはシステムの筋書き通りらしいが、私にとっては完全に寝耳に水だ。
昨日、両親からブラックカードを二枚もらったばかりだというのに、その恩恵をろくに享受する間もなく、今日からまた学校生活だなんて。
せっかくの異世界転生が台無しである。
「お姉さん、お手洗いはこちらよ」
歩奈は天使のような微笑みで廊下の突き当たりを指差した。
「私、先に教室に戻っているから、身支度が済んだら来てね」
私は無言で頷き、彼女の背中を見送りながら、ふと原作の展開を思い出す。
(確か、そろそろ最初の罠にはめられる頃合いのはず……)
「システム、原作だとこのタイミングで何が起こるの?」
『ホスト様、原作では野々村歩奈が女子生徒数名を手配し、お手洗いで『本物のお嬢様』を辱めることになっております』
システムはいつも通り、冷静に事実だけを告げた。
私は奥歯をぐっと噛みしめる。しかし、それでもトイレへ向かわざるを得なかった。
いかんせん、私の膀胱はシナリオの都合で活動を停止してはくれない。
用を足し、さて個室から出ようとしたが、扉はびくともしない。外から誰かが押さえつけているのだ。
「おい! 開けなさいよ!」
ドアを叩きながら叫ぶ。
その瞬間、ドアの上からバケツ一杯の冷水が浴びせられ、私は頭からずぶ濡れになった。上質な制服が肌に張り付き、髪からは絶え間なく水が滴り落ちる。そのみじめな有様に、私はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
ドアの向こうから、甲高い笑い声が聞こえてくる。
「見てよ、この田舎から来た芋女。よくもまあ、私たちのかわいい歩奈お嬢様と張り合おうなんて気になれるわね」
「昨日、野々村家に戻ってきたばかりなのに、もう私たちの優しくて謙虚な歩奈様をいじめ始めたらしいじゃない!」
「こんなのが野々村家の本物のお嬢様だなんて、笑わせるわ!」
私は深く息を吸い込み、冷たい水がじわじわと体温を奪っていくのを感じた。
(これが、『本物のお嬢様』が戻ってきた後の待遇ってわけね)
「ねえ、あんたのその髪飾り、マジでダサくない? 田舎者ってほんとセンスないのね!」
嘲笑うような鋭い声。
無意識に髪へ触れた私は、昨日母から貰ったばかりのシャネルの限定ヘアピンが無くなっていることに気づいた。あれは確か、十数万円はする代物だ。
怒りが、マグマのように腹の底から湧き上がってくる。原作のシナリオ通りなら、この後、私は裸の写真を撮られ、果ては便器に頭を突っ込まれるはずだ。
だが、私はあの泣き寝入りするだけの、か弱い元主人公ではない。
長年の社畜生活で理不尽に耐え、そして怒りを溜め込んできた、戦闘系社会人なのだ!
私は勢いをつけてドアに突進し、肩で思い切りぶち当たった。途端に外からの抵抗が緩み、ドアが弾け飛ぶように開くと、一人の女子生徒が床に倒れ込む。
入り口に仁王立ちになった私は、全身ずぶ濡れながらも、その眼光はカッと見開かれていた。
外には私と同じ制服を着た五人の女子生徒がいたが、その表情は勝ち誇ったものから驚愕へと変わっている。
「なっ……あんた、私を突き飛ばすなんて!」
床に倒れた女子生徒が、信じられないといった様子で私を睨みつけた。
私は答えず、その生徒の襟首を無造作に掴み上げると、振りかぶって乾いた音を立てて平手打ちを見舞った。
「これは、いじめっ子へのご挨拶よ」
私は、冷ややかに言い放つ。
『おめでとうございます。ホスト様の銀行口座に二十万円が入金されました』
システムの無機質な音声が、脳内にクリアに響いた。
「何ですって?」
思わぬボーナスに、私は少し驚く。
『こちらは隠しボーナスです。ホスト様が暴行者を懲らしめ、正義を執行するたびに金銭的報酬が得られます。ただし、報酬は野々村歩奈に関連する人物や事象に限定されます』
(面白い……!)
私は口角を微かに吊り上げ、返す手でもう一発、逆の頬に平手打ちを食らわせた。
『ホスト様の銀行口座に、再度二十万円が入金されました』
「私のパパが誰だか知らないでやってるの!?」
その女子生徒が、金切り声を上げる。
「よくも私をぶったわね!? みんな、やっちゃいなさい!」
他の四人が私に詰め寄ってくるが、不思議と恐怖はなかった。平手を一発繰り出すごとに二十万円が手に入るのだ。これは、私が前の世界で一ヶ月、身を粉にして残業して稼ぐ額より多い!
一通りの立ち回りの後、私の口座には百二十万円が振り込まれ、五人の女子生徒の顔には鮮やかな紅葉が刻まれていた。
「私のヘアピンを、返しなさい」
私は冷笑を浮かべて言い放つ。
「さもないと、もっと高い代償を払わせることになるわよ」
その時、一人の男子生徒が慌てて駆け込んできた。背が高く、野球部のユニフォームを着ている。おそらく、「新入生いじめ」の現場を止めに来た正義のヒーロー気取りだろう。
「やめろ! 何やってるんだ!」
彼は大声で叫んだが、現場の惨状を目にした途端、表情をこわばらせ、気まずそうに視線を泳がせた。
私には、彼に見覚えがあった。
相賀宣男。聖マリアンヌ学院野球部のキャプテンで、原作では野々村歩奈の忠実な取り巻きの一人。私を陥れるのに加担した、共犯者だ。
私はゆっくりと彼に歩み寄り、悪魔のような笑みを浮かべた。
「野球部のキャプテン、ねえ……。あんたは、もうちょっとお高いのかしら?」
相賀宣男の顔色は瞬時に真っ青になり、脱兎のごとく逃げ出した。
その無様な背中を見送りながら、私は心の中でせせら笑う。この歩奈が送り込んだ手先は、原作では散々悪知恵を働かせて『本物のお嬢様』を絶望の淵に叩き落した。
だが、今日はまだ始まりに過ぎない。
私は、『本物のお嬢様』をいじめた者すべてに、相応の代償を払わせてやる。
そして今日から私は、大富豪への道を歩み始めるのだ!







