第3章

放課を告げるチャイムが鳴り、私はスクールバッグを肩にかけて帰る準備を始めた。今朝のトイレ事件でずぶ濡れにされたものの、おかげで大金を稼げたのだ。今日一日は、まずまず順調だったと言えるだろう。そう思うと、自然と口元が緩んだ。

「野々村かほ!」

背後から、聞きたくもない声がした。振り返ると、時谷公樹と野々村歩奈が並んで立っている。時谷公樹は苦虫を噛み潰したような険しい表情で、一方の歩奈は彼の後ろに隠れるようにして、目を真っ赤に腫らし、いかにも庇護欲をそそる様子で俯いていた。

「お前にはがっかりだ」

時谷公樹が、氷のように冷たい声で言い放つ。

「まさか、お前がこんな人間になっていたとはな」

私は片眉をぴくりと上げた。どうにも釈然としない。システムが提供した資料によれば、私と時谷公樹は幼馴染で、かつての私は彼の命を救ったことさえあるはずだ。

だが、今の様子を見るに、彼は完全に歩奈の味方らしい。

「あら? 私が何かしたかしら?」

私はわざと無垢を装って小首を傾げた。

「とぼけるな!」

時谷公樹が、苛立ちを隠しもせずに声を荒らげる。

「俺のことが好きなのは知っている。だが、それが歩奈をいじめる理由にはならない。この十年で、どうしてお前はそんなに変わってしまったんだ? 昔は優しくて、善良な子だったのに……今は!」

思わず、私は噴き出して彼の言葉を遮った。

「待って。私が、あなたを好きですって?」

私はまず自分を指さし、それから呆れたように彼を指さす。

「この、私が? あなたを?」

時谷公樹は一瞬、言葉に詰まった。まさか私がそんな反応をするとは、微塵も思っていなかったのだろう。

「そんなに眉間に皺を寄せないでよ、時谷君」

私はわざと軽薄な口調で言った。

「せっかくのハンサムが台無しよ?」

彼の顔が、みるみるうちに土気色に変わっていく。

「お姉さん!」

すかさず歩奈が時谷公樹の後ろから一歩進み出て、正義のヒロイン然として私を非難した。

「どうしてそんなふうに人の見た目をあげつらうの? ひどすぎるわ!」

「そうだぞ、かほ」

時谷公樹が、待ってましたとばかりに言葉を引き継ぐ。

「昔のお前はそんなじゃなかった。田舎ではろくな躾も受けられなかったようだな。お前にいじめられても、優しさと寛容さを失わない歩奈の爪の垢でも煎じて飲むがいい」

二人が見事な連携で芝居を打つのを目の当たりにして、私はふいに胃の腑がむかつくのを感じた。原作では、この時谷公樹と野々村歩奈は実の兄妹であり、両親を含めた全員を欺いていた。そして今、彼らはまた私の前で陳腐な茶番を演じている。

名状しがたい怒りが、心の底からマグマのように湧き上がってきた。

「害悪」

私は、低く呟いた。

「え?」

歩奈が訝しげに問い返す。

「あんたが害悪だって言ってるのよ!」

私は声を張り上げた。感情が、まるで堰を切ったように溢れ出す。

「野々村歩奈、私が誰だか分かってるの? 私が、野々村グループの本物のお嬢様よ! あんたが! あんたが私の十年間の裕福な人生を奪ったんじゃない!」

歩奈の顔色がさっと青ざめ、時谷公樹は愕然とした表情で固まった。

二人が呆然としている隙に、私は歩奈の前に歩み寄り、彼女の耳元で囁いた。

「代償は、きっちり払わせてあげる」

そして、私は高く手を振り上げ、彼女の頬を思いっきり引っぱたいた。

『ホスト様に五十万円の入金を確認しました』

システムの無機質な音声が、脳内に響き渡る。

歩奈は呆然と頬を押さえ、その大きな瞳からはみるみるうちに涙が溢れ出した。時谷公樹が我に返って詰め寄ろうとするが、私はすでに数歩後ずさり、歩奈を指差して甲高い声で叫んでいた。

「害悪! 害悪!」

私は哄笑しながら、くるりと踵を返して走り去る。

「害悪!」

品性がないって、なんて愉快なのかしら!

その日の夕食。私は食卓に着くと、向かいに座る野々村歩奈を優しい眼差しで見つめていた。

彼女の頬に、もう午後の痕跡は残っていない。

「楽しかった?」

私はにっこりと微笑み、彼女にだけ聞こえる声で囁いた。

歩奈の手が微かに震え、持っていた箸が滑り落ちそうになる。彼女は慌てて食事を掻き込むと、宿題があるからとそそくさと自室へ逃げ帰っていった。

「かほ、歩奈と仲が良いようだな」

父の野々村健一が、満足げに笑いながら言った。

「すぐに姉妹らしくなって、安心したよ」

「ええ、お父様」

私は淑やかに微笑んで答える。

「歩奈と過ごす一瞬一瞬を、大切にしたいと思っておりますもの」

両親の仲睦まじい様子を見ながらも、私の心は冷え切っていた。

原作では、この二人も長年歩奈に騙され続け、本物の娘である私に対しては冷酷無情だった。今の優しさが、いつまで続くというのだろうか。

数日後、月例試験の結果が発表された。自分の名前が学年一位の位置に堂々と掲げられているのを見ても、心は凪いでいた。前世で培った知識の蓄積がある上に、かつてはT京大学の最難関学部に合格した身なのだ。

この程度の高校の試験など、朝飯前だった。

『野々村かほさん、至急、職員室まで来てください』

校内放送から、担任の硬い声が聞こえてきた。

職員室に入ると、担任が不機嫌さを隠そうともせず、腕を組んで座っていた。

「野々村、君にはがっかりしたよ」

彼は重々しく口を開いた。

その言葉に、私は呆然とした。たった今、学年一位を取ったばかりだというのに? なぜ、彼はそんなことを言うのだろう?

私が戸惑っていると、システムの音声が脳内に響いた。

『ホスト様、ご注意ください。これは原作における三番目の罠です』

私は瞬時にすべてを察し、その瞳に冷たい光を宿した。

どうやら、ゲームはまだ始まったばかりのようだ。

前のチャプター
次のチャプター