第3章

 しばらくして、ようやく颯真と瑠璃が戻ってきた。

 颯真は表情を強張らせ、対照的に瑠璃は恥じらうような顔をしている。

 美咲以外の全員が、二人が長いこと席を外していたのは怪しいと冷やかす。颯真の幼馴染までもが一緒になって囃し立て、私が気まずい思いをしていないかなど、気にも留めていない様子だ。

 それもそうか。

 彼らの目には、私は颯真にとってのただの『貢ぐ君』にしか映っていないのだから。

 個室の空気はますます熱を帯び、みんなはゲームを続けながら、颯真と瑠璃がいい雰囲気になるような、艶めかしいきっかけを次々と作り出していく。

 颯真はさりげなく私を一瞥し、こちらの反応を窺っているようだった。

 以前なら、こんな時は間違いなく飛び出して怒り、止めていただろう。

 けれど今は、何の反応も示さない。

 私は黙々と缶ビールを煽った。

 そして、二人の距離が縮まっていく様子を冷静に見つめていた。

 最初こそ、颯真はしきりにこちらの様子を気にし、私が「やめろ」と声を上げるのを待っているかのようだった。

 だが次第に、彼の注意は完全に瑠璃へと向けられていく。その瞳には、恥じらう瑠璃の姿しか映らなくなった。

 その自然な親密さと馴れ親しんだ空気は、かつては私だけに向けられていたものだった。

 諦めると決めたはずなのに、いざ目の当たりにすると、心臓が勝手に締め付けられるように痛む。

 もう、見ていられなかった。

 私は美咲の方を向き、小声で言った。

「行こう。ちょっと疲れちゃった」

 美咲は怒りを露わにして颯真と瑠璃を睨みつけた。

「花梨、私が――」

「いいの」

 私は彼女を制した。

「もう、必要ないから」

 私は黙って荷物をまとめ、コートとバッグを手にする。

 美咲は私が必死に耐えている表情を見て、それ以上は何も言わず、一緒に個室を出てくれた。

 ドアを閉める直前、最高潮に達した場の空気に押されるようにして、瑠璃が顔を赤らめながら背伸びをし、自ら颯真の唇にキスをした。

 颯真は一瞬呆気にとられたようだったが、それはほんの刹那のこと――彼は、彼女を突き放さなかった。

 私と美咲はその場に立ち尽くし、そのすべてを目撃してしまった。

 その光景はまるで鋭利なナイフのように、私の心臓を深く突き刺す。

「花梨……」

 美咲の声が涙で震えている。

 私は深く息を吸い込むと、美咲の手を引いて足早にその場を去った。

 家に着いたのは、ちょうど夜の十一時五十五分。

 志望校の登録締め切りまで、あと五分だった。

 全身の力が抜け、ベッドに倒れ込む。

 目を閉じても、脳裏にはあのキスの場面ばかりが浮かんでくる。

 何度も何度も、映写機のように繰り返し再生された。

 枕元のスマホは、志望校登録画面を表示したままになっている。

 失望していないと言えば嘘になる。

 十数年の想いだ、そう簡単に捨て去ることなどできない。

 悲しみに暮れていると、突然電話が鳴った。

 知らない番号だ。

 出てみると、相手は酔っぱらった颯真だった。

 彼の口調には、珍しく私をあやすような響きがあった。

「橘花梨、意地張るなって。ほら、いい子だから、ちゃんと志望校変えとけよ」

「大阪も結構いいとこだぜ。そん時は、街の撮影に付き合ってやるからさ」

 酒のせいか、颯真の態度はいつになく優しい。

 いつもなら私が拗ねても、彼が折れる時は決まって半ば脅すような口調だったのに――

『花梨、いい加減にしろよ。これ以上騒ぐなら、ディズニーには連れてってやらねえぞ』

 すると私は大人しくその言葉に従い、彼を許してしまうのだ。

 本気で好きな相手とは、決定的な仲違いなんてしたくないものだから。

 だが今回は違う。

 彼が異常なほど優しくなればなるほど、かえって胸が苦しくなる。

「……おい、なんか言えよ、橘花梨……花梨……どうなんだ?」

「お前、ずっと原宿の写真展に行きたいって言ってただろ……調べたんだよ、あそこの大学、原宿に近いからさ、絶対気に入るって」

 颯真はぶつぶつと喋り続ける。自分を説得しているようでもあり、私を説得しているようでもあった。

 まるで、大阪の大学に変えることが、私のための配慮であるかのように。

 私はしばらく黙って聞いていたが、ついにこらえきれず、問いかけた。

「颯真、私に何か言うことはないの?」

 自分でも気づかないほど、声が震えていた。

 もし今、彼が正直に話してくれれば、せめてあのキスのことだけでも説明してくれれば……。

 電話の向こうで数秒の沈黙があり、やがて彼は言葉を濁した。

「……お前、全部知ってるんだろ。今さら何を聞くんだよ」

「その程度のことで一日中不機嫌になりやがって。誰に似たんだか、けち臭い奴だな」

「はいはい、わかったよ。どっちもいい大学だし、学科だってお前が選んだ好きなやつだろ。俺たちが一緒にいられれば、どこの大学に行ったって同じだって……」

 颯真はその後も勝手に話し続けたが、肝心なことには決して触れようとしなかった。

 私の中に残っていた最後の一縷の望みが、音を立てて崩れ去った。

 もう聞く気にもなれない。

 最後のチャンスだったのに。

 それも、もうない。

 彼が言い終わるのを待たず、私は電話を切り、電源を落とした。

 時計に目をやると、秒針がちょうど十二時を回ったところだった。

 志望校の登録受け付け終了。

 もう後悔しても遅い。

 これでいい。

 道は自分で選んだ。私たち、これでお互いに望み通りだね。

 電気を消し、横になって無理やり眠ろうとする。

 けれど目を閉じれば、頭の中は颯真でいっぱいだった。

 楽しかったこと、悲しかったこと、おかしかったこと、腹が立ったこと。いろんな颯真が溢れてくる。

 そして、あのキス。

 背伸びをする瑠璃。

 彼女を突き放さなかった颯真。

 幼い頃から一緒に育ち、互いに寄り添ってきた。すべての記憶に彼の影がある。

 まさか、こんな結末を迎えるなんて思いもしなかった。

 深夜というのは、人を脆くさせるらしい。

 昼間は強くあろうと言い聞かせていたのに、いつの間にか涙が枕を濡らしていた。

 眼鏡を外す。視界がぼやけて何も見えない。

 それがレンズの曇りのせいなのか、涙のせいなのか、私にはもう分からなかった。

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