第3章
マンションに戻り、私は畳んでおいた練習着をスーツケースに詰めた。
鍵が開く音がして、冷気を纏った渡井伝治が入ってくる。床のスーツケースを見た瞬間、彼の元々不機嫌だった顔が一気に曇り、大股で近づくと防塵袋を蹴り飛ばした。
「林原友衣、何の真似だ? 昨日のことで別れるとか言い出すつもりか?」
彼は私を見下ろして言った。
私は顔も上げず、練習着を整理し続ける。
「真似なんかじゃない。私は冷静よ」
渡井伝治が私の手首を乱暴に掴む。
「冷静? もうすぐ五輪の選抜だぞ。今ここで別れ話をするのが冷静だって言うのか?」
私は彼の手を振りほどき、淡々と言った。
「五輪の選抜だからこそ、離れるのよ」
渡井伝治は完全に呆気に取られていた。
「どういう意味だ?」
私は立ち上がり、額のガーゼを指差した。
「昨日のスロージャンプ、私が無理やり体幹で着氷点を制御しなければ、スケートのエッジで喉を切り裂いていたわ。あの時、あなたは何をしていた? 鈴川メメがリンクサイドで咳き込んだからって、あなたは力を抜いて彼女を見た」
渡井伝治の顔が赤くなる。
「あれは事故だと言っただろ! メメが発作を起こしたんだ、本能的に助けようとして何が悪い!」
「本能?」
私は彼を見据えた。
「先月のリフトでもあなたは私を放り出した、彼女が低血糖だと叫んだから。半年前の地方大会の決勝、あなたは欠席した、彼女が酔っ払っていたから。十九回の『想定外』よ、渡井伝治。私は全部数えていたの」
痛いところを突かれた渡井伝治は逆上し、口を滑らせた。
「林原友衣! 俺から離れて何様のつもりだ? 俺がいなきゃ、お前なんて県大会の門すら潜れないくせに! 外でお前が俺の『付属品』だって言われてるのを知らないのか?」
彼は軽蔑の眼差しで私を指差した。
「鈴川メメは基礎こそ未熟だが、才能と華がある。お前はどうだ? 二十四歳にもなって、ただ言われた通りに動く以外、何の価値がある?」
その言葉は氷の錐のように心臓に突き刺さったが、同時に最後の迷いを断ち切ってくれた。
私はスーツケースのファスナーを閉めた。『ジーッ』という乾いた音が響く。
「あなたの言う通りね。だから私が出ていくわ。あなたの天才に席を譲るために」
私が本当に荷物を持ち上げるのを見て、渡井伝治の目に焦りの色が走った。以前なら彼が怒れば、私はいつだって折れていたからだ。
彼はドアの前に立ち塞がり、口調を和らげた。
「友衣、さっきは頭に血が上ってたんだ。分かってるだろ、俺たちは最高のパートナーだ。選抜まであと一ヶ月しかない、行くなよ」
私が無反応なのを見て、彼は手を伸ばそうとした。
「これからはリンクの上では、お前が俺のすべてだ。あのスロージャンプも、二度とミスしないと誓う。メメのことは、担当を変えてもらうよう申請するし、練習以外では個人的に連絡もしない。これでいいだろ?」
彼が具体的な譲歩を見せたのはこれが初めてだった。以前なら、私は絆されていたかもしれない。
しかし、唐突な着信音がすべてを遮った。画面には「メメ」の文字とハートマークが踊っている。
渡井伝治は一秒躊躇ったが、通話ボタンを押した。静寂の中に、鈴川メメの泣きそうな声がはっきりと響く。
「伝治さん……階下に黒い影がうろうろしてるの、怖いよぉ……うぅ……」
渡井伝治は弾かれたように反応し、先ほどの誓いなど彼方へ消し飛んだ。
「メメ、怖がるな! 鍵をかけて待ってろ! すぐ行く!」
彼が車のキーを掴んだ瞬間、私はその袖を掴んだ。
「渡井伝治。さっきあなたは誓ったばかりよ。私がすべてだって」
彼は私の手を力任せに振り払い、焦燥感を露わにした。
「今はそんなことを言ってる場合か? ストーカーだぞ! 人命に関わるんだ、少しは聞き分けろ!」
「聞き分けろ?」
私は荷物を指差した。
「私たちは別れ話をしていて、私は出ていくところなのよ、渡井伝治」
「出ていくにしたって今すぐじゃなくていいだろ!」
彼はドアを開け、振り返りもせずに言った。
「家で大人しくしてろ、勝手に出歩くなよ。彼女の安全を確認したら戻って話し合う!」
『バン!』と重々しい音を立てて、ドアが閉まった。
深夜三時。渡井伝治からLINEが来た。電話すらない。
『友衣、メメが怯えきってる。一人にするのは心配だから、今夜は車の中で見守ることにする。変な勘繰りはするなよ、家でいい子にして待っててくれ。明日の練習には時間通り行くから』
画面を見て、私は笑った。
明日時間通りにリンクへ行けば、私が感謝するとでも思っているのだろうか。彼は知らない。明日の朝のリンクに、林原友衣はもういないことを。
私はあの合鍵を玄関の写真立ての下に押し込み、スーツケースを引いてドアを開けた。
ロサンゼルス行きの便が待っている。
最高のパートナーなんて、クソ食らえだ。
