第4章
公民館には塗りたてのペンキの匂いとともに、何か新しいことが始まりそうな予感が漂っていた。
私が西側の壁を計測していると、背後で足音が聞こえた。コンクリートの床を叩く、重たいワークブーツの響き。それは、実際に「モノ作り」を生業としている人間特有の足音だった。
「手伝いましょうか? その壁、ちょっと厄介でしょう」
振り返ると、そこには二十代後半か三十代前半くらいの男性が立っていた。袖をまくり上げたフランネルのシャツに、しっかりと使い込まれた工具ベルト。宮川雄次が「もっと現場仕事をする」と決意して買ったものの、結局は一度も使われずに車庫で眠っている新品同様のあれとは大違いだ。
かつての車庫、か。
「大丈夫です、一人でできますから」と、私は反射的に答えた。
彼は微笑んだ。「ええ、わかってます。でも、二人の方が早い」
その言葉に、私は不意に動きを止めた。「代わりにやってあげる」でもなく、「やり方が間違っている」でもない。ただ単純に……二人の方が早い、と。
「そうですね」私は言った。「ありがとう」
食卓にあの置き手紙を残して家を出てから、一ヶ月が経っていた。実家の客間での生活、咲良との電話会議、そしてブロックリストの中で積み重なっていく宮川雄次からのメッセージ通知――深夜、ついスクロールして確認してしまう自分が嫌になる。
離婚協議は進んでいた。雄次は私の投資分――千二百万円に利息を上乗せした額を、二年間の分割払いで返済することに合意した。咲良は「私たちは運が良かった」と言った。たいていの離婚劇はもっと長引き、金もかかり、傷も深くなるものだと。
運が良いとは感じられなかった。だが……身軽にはなった気がする。
この公民館の改修プロジェクトは、実のところ咲良の発案だった。彼女はここの館長と知り合いで、無償奉仕のデザインワークを探していると聞きつけてきたのだ。「あなたにとっていい気分転換になるかもよ」と彼女は言った。「何かに打ち込む時間が必要だわ」
彼女の言う通りだった。
工具ベルトの男が手を差し出した。「木村大輔です。大工仕事を請け負ってます」
「神田遥です」私はその手を握り返した。力強く、短く、プロフェッショナルな握手。「あなたもボランティアで?」
「ええ。年にいくつかこういうプロジェクトに参加するようにしてるんです。初心を忘れないためにね」彼は私が測っていた壁に目をやった。「さて、どう攻略しましょうか?」
私たちは三時間ほど作業を続けた。木村大輔が寸法を測って材木を切り出し、私が設置場所に印をつけて水平器で確認する。彼は無駄口を叩かず、私はそのことに感謝した。時折、「それ取ってくれる?」「この角度、どう思う?」と声をかけてくる程度だ。
それは、私がここ数年味わったことのない、心地よい静寂だった。宮川雄次との沈黙は、いつだって何かが充満していた。私が彼を楽しませ、支え、何かをしなければならないような重圧があった。
だが木村大輔との沈黙は、ただの……静けさだった。
正午になると、彼は背筋を伸ばし、軽くストレッチをした。「昼休憩にしませんか?」
近くにファミレスがあった。私たちは昼食を注文し、テラス席に座って近所の人々が行き交うのを眺めた。
「デザインの仕事はどれくらいですか?」木村大輔が尋ねた。
「十年……それくらいかな。フリーランスになってからは三年になります」私は、なぜフリーランスになったのか、その三年間の夜という夜を請求書の支払いのために費やし、その一方で誰かさんが夢を追いかけていたことについては、慎重に触れないようにした。
「腕がいいですね。ここのレイアウト、すごくいいと思います。機能的だけど、お役所仕事っぽくないというか」
わかってる。それこそが、私の目指していたものだったから。
「そっちは?」と私は聞いた。「どうして大工に?」
「ありきたりな道のりですよ。高校で建築のバイトを始めて、大学を出てからは大手ゼネコンへ。五年間、オフィス街や高級マンションを建て続けました」彼はおにぎりを一口かじった。「給料は良かった。でも労働時間は最悪。目的意識はもっと最悪でしたね」
「それで、辞めましたの?」
「ええ、辞めました」彼はにかっと笑った。「人生で最高の決断でしたよ。誰かに見せびらかすための建物を作るより、実際に使ってくれる人のために作る方が、ずっと気分がいいってわかったんです」
胸のつかえが少し取れた気がした。「そうですね……わかりますわ、それ」
翌日、木村大輔は二つのコーヒーを持って現れた。
「好みがわからなかったんですけど、バリスタが『デザイナーならたいていオーツミルクラテだ』って言うんで」
私は彼をまじまじと見つめた。「どうして……」
「オーツミルク派だって知ってたか、って? 昨日言ってたじゃないですか。あのファミレスの牛乳でお腹が痛くなるって」
通りすがりに言っただけだ。作業中の何気ない一言。それを彼は覚えていた。
宮川雄次は決して覚えていなかった。私が乳糖不耐症だと百回伝えても、彼は普通の牛乳を買って帰ってきたし、チーズたっぷりのメニューがあるレストランばかり提案してきた。
「ありがとう」私は静かに言った。
「どういたしまして」木村大輔はカップを渡すと、何事もなかったかのように作業に戻った。人の些細なことを覚えているのは当たり前だ、とでも言うように。
その後の一週間で、私たちは自然なリズムを築き上げた。彼がコーヒーを持って現れる。午前中いっぱい作業し、昼食をとり、夕方遅くに切り上げる。時にはプロジェクトのことや近所の話題、どうでもいい話をした。時には何も話さなかった。
それは気楽で、複雑さがなく――「普通」だった。
プロジェクトの最終日、私たちはメインルームに並んで立った。壁は塗り直され、建具が取り付けられ、床はきれいに仕上げられている。窓から差し込む午後の遅い日差しが、すべてを輝かせていた。
「近所の人たち、喜ぶだろうな」木村大輔が言った。
「ええ」自分たちが作り上げたものを見渡した。「いい気分ね。意味のあるものを作るって」
私たちは少しの間、心地よい沈黙の中にいた。
やがて、木村大輔が私の方を向いた。「よかったら、今度夕食でもどうですか? 仕事抜きで。ただの……食事として」
胸が締め付けられた。まだ準備ができていない。まったくもって、その段階ではない。
「私、離婚協議中なの」と私は言った。「だから、その……」
「無理強いはしませんよ」彼は両手を挙げて笑った。「でも、もし気が向いたら、いつかその気になったら……俺、カレーを作るのは得意なんで」
気がつくと、私は微笑み返していた。目尻が下がるような、心からの笑顔で。
「覚えておくわ」
「よし」彼は道具袋を拾い上げた。「じゃあまた、神田さん」
「ええ、また」
私はメジャーと水平器、スケッチブックを片付けた。生まれ変わった部屋を最後にもう一度振り返る。一ヶ月前、ここは水染みのある壁と反り返った床板だけの薄暗い場所だった。今、ここは人々が集い、学び、成長できる場所になった。
私が、それを実現させたのだ。透明人間としてではなく、誰かの妻としてでもなく、誰かのビジョンのための資金源としてでもなく。
ただの私。神田遥として。
車に乗り込み、駐車場で待っている宮川雄次の姿を目にしたときも、私の顔にはまだ笑みが残っていた。
