第2章

 解剖室の無影灯が、目も眩むほど白々しく輝いている。

 検視が一通り終わると、夏川圭一郎は血に濡れた手袋を外し、無造作にダストボックスへ放り込んだ。その眉間には、拭い去れない苛立ちが深く刻まれている。

「全身に多発性の粉砕骨折、内臓破裂を確認。大型車両による轢過の特徴と一致します」

 傍らで記録を取る林原透哉の声は、微かに震えていた。

「顔面の損傷が激しすぎますし、指紋も摩耗していて……これでは身元の特定は不可能です」

 夏川は肉塊と化した遺体に一瞥をくれると、冷徹かつ事務的な口調で命じた。

「直ちに検体を採取し、DNA鑑定に回せ。行方不明者リストとの照合も急げ」

 そう言い捨てると、彼は腕時計に視線を落とす。時間を計算しているようだ。

 私は宙に浮かびながら、その様子を見下ろしていた。普段は敏腕監察医として知られる彼が、仕事を一刻も早く切り上げ、別の女の元へ向かおうと焦燥している姿を。

「了解しました、夏川班長。では、衣類や所持品の整理は私が……」

 手を洗おうと踵を返しかけた夏川を、遺体の手指を洗浄していた林原が呼び止める。

「あっ、夏川班長。お待ちください」

 林原はピンセットを使い、私の左手の薬指の骨から、鬱血と泥にまみれた円環を慎重に取り外した。

 軽く汚れを拭い去ると、本来の姿が露わになる。それは装飾のない、作りもいささか粗雑なシルバーリングだった。

「骨の間に食い込んで変形していたため、見落とすところでした」

 林原は指輪を証拠品袋に入れると、夏川の目の前に差し出した。

 夏川は足を止め、ビニール越しにその銀色の輪を見つめる。

 その瞬間、彼の視線が凍りついた。

 私は固唾を呑んで彼を見守る。彼が袋の上から、歪んだ指輪を指先でなぞるのを。

 結婚三周年の記念日、彼に内緒で彫金工房へ行き、午後いっぱい金槌を振るって作ったペアリングだ。

 満面の笑みでプレゼントした私に対し、彼は一瞥しただけで「安っぽい」「作りが雑だ」と吐き捨てた。結局、彼は一度も指を通すことなく、机の引き出しの奥へと放り込んだのだ。

『五百川瑞穂、お前はいつもそんな貧乏くさい真似ばかりだな』

 当時の冷ややかな声が蘇る。

『夜子なら、そんなみっともない真似はしない』

 夏川は目の前にある『死者』の指輪を見て、眉をひそめた。

 デザインは似ている。安っぽくて、粗雑だ。

 だが、彼はそれが私の贈った指輪だとは気づかない。何しろ、まともに見たことすらないのだから。

 彼は証拠品袋を突き返すと、平坦な声で言った。

「保管しておけ。薬指にはめていたんだ、大事にしていたんだろう」

 その光景を前に、魂が見えない手で鷲掴みにされたような激痛が走る。

 なんという皮肉だろう。

 生きている時はゴミのように扱われた手製の指輪が、死体になった途端、彼に『大事なもの』として認定されるなんて。

 既視感を覚える指輪のせいで、夏川の胸に得体の知れない苛立ちが込み上げたようだ。何かがつかえているような感覚。

 彼は無意識のうちにスマートフォンを取り出し、トップに固定されたトーク画面を開いた——それは、私とのLINEだ。

 画面には、私の一方的な『独り言』が並んでいる。

『圭一郎、寒くなったから暖かくしてね』

『胃薬はサイドボードの上よ。痛んだら飲んで』

『好きなスペアリブ作ったから、早く帰ってきて』

 画面を埋め尽くすのは、私の気遣いの言葉ばかり。対する彼の返信は、素っ気ない『ああ』や『忙しい』、あるいは長い沈黙のみ。

 夏川が指を滑らせ、最後のメッセージの送信時刻で視線を止める。

 昨日の午後。

 それから丸二十四時間、私は一文字も送っていないし、彼からの詰問にも答えていなかった。

 空白の入力欄を睨みつける夏川。指輪によって生じた微かな違和感は、瞬く間にいつもの不快感へと塗り替えられた。

 彼は鼻を鳴らし、画面をロックする。

「まだ拗ねているのか」

 彼は確信めいた口調で呟いた。

「無視か。いいだろう、いつまで意地を張っていられるか見ものだ」

 彼にとって私の音信不通は、気を引くための安っぽい芝居に過ぎない。喧嘩のたびに私が黙り込むのと同じだと信じているのだ。

 夏川はもう指輪に見向きもせず、出口へと歩き出した。

 その時、スマートフォンが短く震える。

 画面に躍る通知を見た瞬間、彼の表情から冷徹さが消え、焦燥が張り付いた。

「あとの処理は任せる。夜子の胃痙攣が酷いらしい。病院で心細がっているから、すぐに行かないと」

 言うが早いか、彼は大股で部屋を出て行く。

「ですが、夏川班長……」

 林原が何か言いかけたが、重厚な防音扉が『バン』と閉ざされる音にかき消された。

 夏川圭一郎の姿は、すでにそこにはなかった。

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