第3章
夏川圭一郎は、猛スピードで車を飛ばしていた。
病室に駆けつけると、江原夜子は顔面蒼白で、枕に力なく身を預けていた。だがその視線は、夏川圭一郎に吸い寄せられたまま離れない。
「圭一郎さん、わざわざ私のために仕事を抜けてこなくても……。奥さんに知られたら、また騒がれちゃうんじゃ」
江原夜子の声は柔らかく、そこには怯えたような探る響きが含まれていた。
夏川圭一郎はリンゴを手に取り、声の温度を数度下げた。
「あいつの話なんてするな。あんな女、ヒステリーを起こして暴れる以外に能がないだろ」
「でも……」
江原夜子は下唇を噛み、何気ない風を装って付け加えた。
「きっかけはあの時の酔った勢いだったかもしれないけど、二人は……。みんなは、彼女が計画的に酔ったあなたを誘惑したって言ってるわ。でも私、五百川瑞穂さんは地位のためにそこまでする人じゃないと思うの……。たとえ、たとえ外では異性関係がだらしないとか、多くの男性と関係を持ってるとか噂されていても……」
その言葉を聞いた瞬間、私の彷徨える魂は、再び身を切るような寒さを感じた。
これが、夫の信じる真実なのだ。
あの夜、泥酔した夏川圭一郎を一晩中看病したのは私だった。それなのに、江原夜子の手引きによって、私が酒に細工をして彼に関係を迫ったのだと思い込まされている。結婚後も、彼女は夏川圭一郎に対し、私が「尻軽女」だの「私生活が乱れている」だのというデマを吹き込み続けてきた。
この二つの誤解が、夏川圭一郎の心に刺さった棘となり、彼が私を嫌悪し、侮辱し続ける源となっていた。
「夜子、君は純粋すぎるんだ。だから騙される」
夏川圭一郎は綺麗に剥いたリンゴを彼女に手渡した。その瞳には、かつて私が焦がれた優しさが宿っている。
「五百川瑞穂のような虚言癖のある女を、君が心を痛めて庇う必要はない。本当にやましいことがないなら、今頃失踪ごっこなんてしていないはずだ」
江原夜子はリンゴを受け取ると、口元に微かな、しかし確かな勝ち誇った笑みを浮かべた。だがすぐに胸を押さえ、眉を寄せる。
「圭一郎さん、やっぱり怖いの……あの身元不明の遺体、酷すぎるわ。どうしてあんな残酷なことができるの」
「怖がることはない」
夏川圭一郎は落ち着いた声で宥めた。
「遺体はすでに署の解剖室に運ばせた。助手に早急に処理させて、死者を弔ってやるさ」
その時、サイドテーブルに置かれた夏川圭一郎の携帯電話が震えた。
画面には『林原透哉』の名前が表示されている。
夏川圭一郎は眉をひそめ、このタイミングでの邪魔に不快感を露わにしたが、それでも電話に出た。その声は、仕事モードの冷徹なものに戻っていた。
「話せ」
電話の向こうから、助手である林原透哉の切迫した声が聞こえてきた。
『夏川さん、高架下の身元不明遺体について、検死結果が出ました』
「何か特異な所見でもあったか? 報告書を回せばいい」
電話の向こうが一瞬沈黙した。続いて林原透哉の声が、受話器越しでもはっきりと分かるほど重苦しいものに変わる。
『夏川さん、状況は惨烈です』
『腹部に打撲痕がありますが、子宮内膜の著しい肥厚が見られ、胎内から残留した胎児の組織片が検出されました』
『母子ともに、死亡しています』
夏川圭一郎のリンゴを削る手が、ぴたりと止まった。眉間に深い皺が刻まれる。
「妊娠していたのか?」
『はい、妊娠六週目あたりかと』
夏川圭一郎は長い沈黙の後、顔から冷徹さを消し、深く息を吐いた。その声は低く沈んでいた。
「たったの六週か……二つの命だぞ。あまりにも無惨だ」
電話を切った後も、彼はどこか心ここにあらずといった様子で、窓の外を見つめながら独り言のように呟いた。
「事故にせよ何にせよ、これでは生まれてくるはずだった子供が不憫すぎる」
彼の瞳の奥に滲む哀れみの色を見て、私の魂は激しく震えた。
記憶の門が轟音と共に開き、私をあの死が訪れる前の夜へと引き戻す。
あの晩、私は病院で検査結果を受け取ったばかりだった。
そこにははっきりとこう書かれていた。
【子宮内妊娠、約六週】。
あの一瞬、病院の無機質な廊下に立ち、その紙切れを握りしめた時、世界が輝いて見えた。歓喜に満ち溢れていた。これは神様がくれた最後のチャンスかもしれない、冷え切った私たちの結婚生活における唯一の希望の光だと、そう思ったのだ。
たとえあなたが私を嫌っていても、子供のためなら、一度くらい私に笑いかけてくれるのではないか。
一刻も早くあなたに会いたかった。この吉報を、自分の口から伝えたかった。
だから私は車に乗った。頭の中は、父親になると知った時のあなたの表情でいっぱいだった。驚く顔? 呆然とする顔? それとも、ほんの少しの喜び?
あまりにも急いでいたから。あまりにも嬉しかったから。
私は衝突が起きるその一秒前まで、無意識にお腹を庇っていたのだ。
夏川圭一郎。
もし、いつかあなたが知ることになったら。
あなたの解剖台の上で、その冷たいメスによって切り開かれた身体が私で、まだ人の形も成していないその血の塊が、あなたの子供だったと知ったら。
あなたは、たった一秒でもいい。
さっき口にした言葉を、後悔してくれるだろうか?
