第4章
夜も更け、病院の廊下は恐ろしいほど静まり返っていた。
江原夜子は散々騒いで疲れ果てたのか、点滴を受けながらようやく眠りに就いた。夏川圭一郎はベッド脇の付き添い椅子に腰を下ろしていたが、その眉間の皺は刻まれたままだ。
さっきから、心臓が奇妙に締め付けられる。不意に襲ってくる動悸に、居ても立ってもいられない。無意識に胸元を強く押さえ、その焦燥感をねじ伏せようとするが、徒労に終わる。
彼はスマートフォンを取り出した。画面の光が、冷淡だが疲労の色が濃い彼の顔を照らし出す。
トーク画面は、私と彼との履歴で止まっている。最後の一通は、三時間前に彼が送ったものだ。
『いい加減にしろ。見たらすぐ電話しろ』
梨の礫だった。
以前なら、彼からの連絡があれば、たとえ深夜三時だろうと十秒以内に返信していた。一秒たりとも待たせるのが怖かったからだ。
だが今、その画面は沈黙を守ったままだ。
その夜、夏川圭一郎はほとんど眠れなかった。頻繁に携帯を確認しては、画面が光るたびに瞳の奥に微かな期待を宿し、通知欄が空であるのを見ては、すぐに陰鬱な色へと沈んでいく。
空が白み始めた頃、江原夜子はまだ目覚めていない。夏川圭一郎は冷水で顔を洗うと、上着を引っ掴んで病室を出た。
向かった先は、病院から三キロも離れた老舗の点心店だ。
江原夜子の好物である海老蒸し餃子は、数量限定で、遅れるとありつけない代物だった。
早朝の寒風の中、彼は苛立ちを抑えて四十分もの長蛇の列に並んだ。
片手をコートのポケットに突っ込み、もう片方の手でスマートフォンを握りしめ、飽きもせず私の番号を呼び出し続ける。
「お掛けになった電話は、電波の届かない場所にあるか……」
「お掛けになった電話は……」
機械的な女性の音声だけが、虚しく耳元で繰り返される。
私は彼の傍らに漂いながら、その様子を眺めていた。最初は単なる不機嫌だったものが、次第に焦燥へと変わり、携帯を握る指の関節が白く浮き出るほどになっている。
「五百川瑞穂、いい度胸だ」彼は充血した目で、歯噛みしながら低く唸った。
「失踪ごっこか? 捕まえたらただじゃおかないぞ」
彼の手にある、出来立ての湯気を立てる海老蒸し餃子を見て、私は極上の皮肉を感じていた。
結婚して三年、彼が私のために朝食を買ってきてくれたことなど、一度たりともない。
高熱を出して温かいお粥が食べたいと懇願した時でさえ、彼は冷たく「出前でも取れ」と言い捨て、〝ショックを受けた〟江原夜子の看病へと向かったのだから。
病室に戻ったのは、午前十時を回った頃だった。
目を覚ました江原夜子は、夏川圭一郎が好物を提げて現れたのを見て、驚きと虚弱さをない交ぜにした笑顔を浮かべる。
「圭一郎、こんな遠くまで……悪いわ。本当はお腹なんて空いてないのに、そんなに甘やかさないで」
「ついでだ」夏川圭一郎は素っ気なく答え、容器の蓋を開けて丁寧に箸を渡す。
だが、体はそこにあっても、魂はどこかへ抜け落ちてしまっていた。
江原夜子が話しかけても、反応はいつもワンテンポ遅れる。彼の視線は、サイドテーブルに置いたスマートフォンへとしきりに吸い寄せられていた。その心ここにあらずな様子は、江原夜子の目にも明らかだった。
「圭一郎、誰かの電話を待ってるの?」海老蒸し餃子を一口齧り、彼女は何気ない風を装って尋ねた。
「もしかして、お義姉さんからまだ連絡がないの? お義姉さんも酷い人ね。圭一郎が仕事で忙しいのを知ってるくせに、こんな時に意地を張るなんて……」
「放っておけ」夏川圭一郎は冷たく遮り、コップの水を煽って動揺を隠そうとした。
「頭が冷えれば、勝手に戻ってくる」
そう言い終えた、その時だった。
静まり返った病室に、唐突な着信音が鳴り響いた。
夏川圭一郎の動きが、弾かれたように止まる。
彼は瞬時に携帯を引っ掴んだ。画面に躍る文字は――『五百川瑞穂』。
その瞬間、彼の張り詰めていた肩の力が抜け、次いで、一晩中抑え込まれていた怒りが爆発するのを私は見た。
彼は躊躇いなく通話ボタンを押し、怒声を浴びせた。
「五百川瑞穂、やっと電話に出る気になったか!」
「偉くなったもんだな。無断外泊に音信不通、俺が何回かけたと思ってる? 一体何のつもりだ!」
「生きてるなら、今すぐ病院に来て夜子に謝……」
彼の罵倒が、唐突に途切れた。
電話の向こうから聞こえてきたのは、いつもの私の怯えた謝罪でも、涙声の言い訳でもなかったからだ。
それは冷静で低く、事務的な響きを帯びた男の声だった。
『夏川隊長。私です、林原透哉です』
夏川圭一郎は呆然とした。激情が頭から氷水を浴びせられたように鎮火し、喉の奥で言葉が詰まる。
「林原透哉? なぜお前が出る? どうして五百川瑞穂の携帯をお前が持っているんだ?」
一瞬の間を置いて、彼は何かを思いついたように鼻で笑った。
「なんだ、あいつは俺から逃げるために、署に駆け込んで騒いでいるのか? 本人に代われ」
受話器の向こうは、死のような沈黙に包まれた。
その沈黙はあまりに長く、重かった。夏川圭一郎の携帯を握る手が、制御できないほど微かに震え出す。
正体不明の不安が、ここで頂点に達した。
「おい、答えろ!」夏川圭一郎が低く吼える。
ようやく、林原透哉の声が再び響いた。そこには一切の感情がなく、ただ残酷な事実だけがあった。
『夏川隊長、五百川瑞穂さんは電話に出られません』
『高架下の身元不明女性の遺体……その衣類の断片から、大破した携帯電話が発見されました。鑑識がSIMカードのデータを復旧させたところです』
『持ち主は……五百川瑞穂さんと確認されました』
夏川圭一郎の瞳孔が極限まで見開かれる。雷に打たれたように、その場に凍り付いた。
林原透哉の声は続き、その一言一句が重いハンマーとなって、彼の独り善がりな思い込みを粉々に打ち砕いていく。
『あの妊婦を含む二名の命を奪った焼死体は、五百川瑞穂さんです』
