第1章
死んだら魂は宙に浮く、なんて言うけれど、どうやらそれは本当のことらしい。私は天井近くを漂いながら、人生の最後の二年を過ごしたレストランを見下ろしていた。もう誰もいないはずの店内に、ぽつんと18番テーブルの照明だけが灯っている。
私が死んだのは、三日前のこと。交通事故だった。中島律の誕生日をサプライズで祝おうと、ケーキを抱えて急いでいた、その帰り道。そして今、私はここにいる。私の世界のすべてが、リアルタイムで誰かのものに塗り替えられていく様を、ただ見つめながら。
18番テーブルへと、ふわりと近寄る。そこは、私たちの特別な場所だった。初めてのデートも、仕事終わりの週に一度のささやかなディナーも、人生の大きな節目は、いつもこのテーブルだった。
テーブルの上には、二つのワイングラスが置き去りにされている。飲み干された赤い染みが、真っ白なテーブルクロスにじわりと滲んでいた。その横には、見覚えのない毒々しいピンヒール。そして、律の革のブレスレットが――私が三ヶ月分の給料を貯めて贈ったプレゼントが――無造作に放り出されていた。
「あの子の荷物、どこやったの?」
キッチンの奥から、女の声が聞こえる。近藤美咲だ。自分の艶やかな髪に指を通しながら、彼女は姿を現した。
「店長の休憩室。あそこなら誰もわざわざ見ないだろ」
律が気怠そうに答える。
私の、荷物……。洗い替えの制服、寒い夜のために置いておいたカーディガン、ロッカーの隅に隠した小さな私物たち。
近藤美咲が照明の下に歩み出た瞬間、あるはずもない心臓が、ぎしりと軋んだ。彼女が羽織っているのは、私のピンク色のカーディガン。私が一ヶ月間、毎日割引弁当で食いつないで、やっと手に入れた、あの柔らかなカシミアの……。
「これ、すっごく可愛いじゃん」彼女は袖をくしゅっとたくし上げてみせる。「井上春菜って、意外とセンス良かったんだ」
――良かった。もう、過去形。
キッチンから、律が現れる。シャツのボタンは半分ほど外され、髪も乱れていた。彼は、近藤美咲が私の服をまるで自分のもののように着こなしているのを、何の感慨もなさそうに眺めている。
「やるよ」律は肩をすくめた。「残りは全部、まとめてリサイクルショップにでも売り払え」
リサイクルショップ。私の生きてきた二年間は、使い古した家具みたいに、あっけなく処分されてしまうんだ。
次の瞬間、律が近藤美咲を調理台にぐいと押し付けていた。オーダーの合間に、私たちがこっそりキスを交わした、あの冷たいステンレスの調理台。今、彼は彼女をそこに押し付け、かつて私の腰をなぞったその手つきで、寸分違わず、彼女の腰へと這わせている。
「本当にいいの?」
近藤美咲は囁くが、その指はすでに彼のシャツのボタンを弄んでいた。私のカーディガンが彼女の肩から滑り落ち、床にピンク色の水たまりのように広がった。
「春菜はもういない」彼の声が、近藤美咲の首筋に荒々しく響く。「もう、前に進むしかねえだろ」
前に、進む。たった三日で、彼はもう。
律の唇が、飢えた獣のように彼女の唇を塞いだ。私に触れる、あの慈しむような優しいキスとはまるで違う。もっと生々しくて、何かを焼き尽くしてしまおうとするかのような、乱暴なキス。
近藤美咲は溶けるように身を預け、彼の髪に指を絡ませる。彼が仕事のストレスに参っていた夜、私がいつも優しく撫でていた、その髪に。
「最初から、こうしてほしかったの」彼女は彼の唇に吐息を吹きかける。
律は近藤美咲をカウンターに軽々と持ち上げ、その両脚の間に収まった。あのカウンター。客足の途絶えた午後に、私が腰掛けて足をぶらつかせながら、彼がレジを締めるのを眺めていた場所。彼が私に野菜の千切りの仕方を教えてくれた場所。二人でこっそり賄いをつまみ、くだらない冗談で笑い合った場所。
今や、そこは彼女のステージになっていた。
彼の手が彼女の太ももを滑り上がっていく。近藤美咲は小さく息を呑み、頭を後ろに反らせた。滑らかで完璧な、傷ひとつない喉元があらわになる。事故の後の私の首筋とは、きっと大違いだろう。
「……やべえな。綺麗だ」と彼は告げる。
綺麗だ。彼は私のことも「きれいだ」と言ってくれたけれど、それはいつも、自分にそんな資格があるのか確かめるような、ひそやかな声だった。彼女に向けられたその言葉は、自信に満ちて、疑いようもなかった。
近藤美咲の指が、焦れたように彼のベルトのバックルにかかる。
「あなたが欲しい」彼女は囁いた。「お願い……」
どんな声で、何を囁けば男が喜ぶのか、彼女は完璧に心得ている。息は弾んでいるのに、必死さは見せない。欲しているのに、がっついてはいない。まるで、この駆け引きを幾度となく繰り返してきたかのように。
彼の手は、隅々まで記憶に刻むように彼女の体をなぞっていく。その一つ一つの感触が、私という存在の輪郭を少しずつ消していく。一つ一つのキスが、私たちの歴史を上書きしていく。
「ここで?」彼はキッチンをぐるりと見回す。
「ここで、いい」彼女は彼をさらに強く引き寄せる。「誰に見られたって、構わない」
構うのは私だ。私は全部見ている。私たちが恋に落ちたこの場所で、彼が他の女と体を重ねるのを。私が、このお腹にあなたとの赤ちゃんを宿したまま死んだ、たった三日後に。
二人は今や一体となり、互いのリズムを貪り合っている。彼女の爪が彼の肩に食い込み、私が二度と主張できない領域をマーキングしていく。彼の唇は、かつては私だけのものであったはずの肌の上を蹂躙していく。
「そう……」彼女は熱い息を吐く。「……そのままで」
カウンターが二人の下でカタカタと揺れ、金属と金属がぶつかる無機質な音が響く。そこにはロマンチックな要素など何もない。ただ剥き出しの欲求と、誰かを忘れ去るための、自暴自棄なセックスがあるだけだ。
私を、忘れようとしている。
彼女の喘ぎ声がステンレスの壁に跳ね返り、冷凍庫の低い唸りや遠くの交通騒音と混じり合う。それは、私が完全に過去の存在になったことを告げる、残酷な葬送曲だった。
ここは、私たちの場所だったのに。閉店後の遅い夜、いつか二人だけの店を持とうと夢を語り合った場所。私たちだけの聖域になるはずだった場所。
今や、彼女がここを支配している。
彼は、彼女といる時、まるで別人だった。より荒々しく、より自信に満ちている。まるで、私と過ごした時間は単なる練習で、こちらが本番だとでも言いたげに。彼の動き、彼が立てる音、その息遣いに至るまで、すべてが彼女といる時の方が、ずっと生気に満ち溢れていた。
「止めないで」彼女は喘ぎながら、彼に脚を絡ませる。
止めて。お願いだから止めて。もう見ていられないのに、目を逸らすこともできない。私はこの場所に縛り付けられ、自分の人生がリアルタイムで消去されていくのを見せつけられている。叫びたいのに、死んだ女に声はない。泣きたいのに、幽霊は涙も流せない。
もうすぐだ。彼の呼吸の変化、肩の緊張。八ヶ月間、彼を愛し、その身体を隅々まで知った私にはわかる。でも、彼女とのそれはもっと速くて、もっと安易だ。まるで彼女の身体が、私の身体では決して奏でられなかった官能的な言葉を、雄弁に語っているかのようだ。
終わりの瞬間、彼女は彼の名前を叫んだ。
「律っ」
――私たちの間だけの愛称だった「りっちー」ではなく。そして彼は彼女の首筋に顔を埋め、「美咲」と、まるでそれが世界で唯一意味を持つ言葉であるかのように呻いた。
春菜じゃない。もう二度と、私の名前が呼ばれることはない。
二人はしばらくそのままで、互いの汗に濡れた肌を重ねたまま、満ち足りた静寂に身を委ねていた。
やがて身体を離すと、近藤美咲は自分のスマートフォンを掴んだ。
「この照明、最高」彼女は床から私のカーディガンを拾って羽織ると、慣れた手つきでセルフィーを撮り始める。
「何してんだよ」
「インスタのストーリー」彼女は素早く文字を打ち込む。「『深夜の雰囲気💕』ってね。私のフォロワー、こういうの好きだから」
『何の舞台裏よ。死んだ女の人生を乗っ取る、その一部始終じゃない』
「場所のタグはつけんなよ」律は言うが、その口元は緩んでいる。注目されるのが好きなのだ。
「わかってるって。リラックスしなよ、律」彼女は投稿し、彼に画面を見せた。「ほら、もうすごい勢いで『いいね』ついてる」
律。彼女は彼を律と呼ぶ。私は彼を「りっちー」と呼んだ。それは私たちの合言葉で、二人だけの秘密だったのに。彼女が手に入れたのは、ありふれた愛称。
「片付けないと」律は自分たちが散らかした惨状を見渡す。
「あなたがやって。私はメイク直してくる」近藤美咲は、ずっと前から自分のものだったかのように私のカーディガンを着たまま、洗面所へと消えた。
一人になり、律は調理台を拭き、ワイングラスを片付け始める。その手元で、彼のスマートフォンが震えた。
画面に表示されたのは、清水友里からのメッセージだった。
『春菜のご家族から、まだお葬式の連絡ないんだけど、律ってお母さんとかに会ったことあったっけ?』
葬儀の段取り。彼が、私の服を着たインスタモデルとセックスをしている、まさにその間に。







