第3章
店長の休憩室の窓越しに、中島律がエリアマネージャーの岡本健人にスマホの画面を見せているのが見えた。岡本は満足そうに頷いている。
「岡本さん、近藤さんの投稿、もう『いいね』が二百件もついてますよ」
律が言う。
「レストランにとって、すごい宣伝効果です」
「ほう、二百件もか」
岡本は感心したようだ。
「彼女の通常業務に、ソーシャルメディアの担当も加えるべきかもしれんな」
「はい。彼女は天性の才能があります。ブランドの見せ方を本当によく分かっている」
ブランドの見せ方、ですって? ここは都心のお洒落なレストランなんかじゃない。ロードサイドの、どこにでもあるファミリーレストランだ。うちのブランドは、いつ来ても変わらない安心の味と、心のこもったサービス。インスタ映えする見栄えなんかじゃ、決してなかったはずなのに。
「それで、春菜はこういうことは一切やらなかったのか」
岡本が訊ねる。
「春菜はもっと……昔ながらの接客に集中していましたから」
律は、慎重に言葉を選んで答えた。
昔ながらの接客。まるでそれが退屈で、時代遅れだとでも言いたげな口ぶりだった。お客様一人ひとりを大切にして、関係を築いていくことが、そんなに古臭いことみたいに。
「まあ、変化は良いことかもしれん」
岡本は言った。
「特に、若い客を呼び込めるのならな」
二人は話し続け、近藤美咲の『ソーシャルメディアスキル』とやらを、レストランの運営にどう組み込むか、楽しそうに計画を立てている。
この店を支えてきたのは、私の『昔ながらの接客』だった。常連のお客様、口コミでの評判、一席ごとに心を込めたおもてなし。でも、そんなものはもうどうでもいいらしい。インスタ映えしないから。
夕食のピークタイムが始まり、注文が立て続けに入る。近藤美咲はまだ新しいシステムに慣れておらず、オーダーの入力に手こずっていた。
「近藤さん、十九番テーブルのお客様がドリンクバーの使い方、聞いてるわよ」
清水友里が声をかける。
「りっちー、これ手伝ってもらえないかな」
近藤美咲が、中島律を呼んだ。
りっちー。
それは、私が彼につけた特別な名前。二人だけの、秘密の呼び方。恥ずかしがって、私がそう呼べるようになるまで、何ヶ月もかかったのに。
律の動きが一瞬だけ止まる。何かを思い出すかのように、私の使っていた古いロッカーの方に目をやった。そして、何事もなかったかのように彼女の方へ歩み寄る。
「どうした」
彼は訊ねた。あの名前を咎めることさえしない。
『りっちー』は、私のものだった。彼がいつもシフト表に無愛想に『律』とだけサインしていたから、私がふざけてそう呼び始めた。それは私たちの合言葉で、二人だけの、親密な響きを持っていた。なのに今、あの女はみんなの前で平然とそれを使って、まるでずっと自分のものだったかのように主張している。
清水友里も、気づいていた。彼女は鋼さえ溶かしそうな鋭い視線を律に送るが、彼は決して目を合わせようとしない。
「ありがとう、りっちー」
律がオーダーを直し終えると、近藤美咲は言った。わざとみんなに聞こえるくらい大きな声で。自分の縄張りを、誇示するように。
ガンッ、と植川大輔が必要以上に強く食器の回収ボックスを叩きつけた。
夕食休憩中、何人かのスタッフが休憩室に集まって食事をしていた。近藤美咲もそこに加わり、あっという間に会話に溶け込んでいく。
「それで、中島さんとは付き合ってどのくらいなんですか」
バイトの一人、江口由美が訊いた。
「まだ、ほんの最近なの」
近藤美咲は、はにかんだように笑ってみせる。
「でも、なんていうか、すぐに意気投合しちゃって。初日に、このお店の看板メニューのフルーツティーの作り方、彼が教えてくれたんだよ」
彼が、教えた? あのレシピは、私が作ったのに。ミントとレモンのバランスを完璧にするために、何週間も試行錯誤を重ねた。誰もいない深夜のレストランで、デートの最後に、私が彼に作り方を教えてあげたのに。
「すてきー」
江口由美が言う。
「それって、ベリーフルーツティーですか? すごく人気ですよね」
「ええ。りっちーが言うには、フレッシュベリーを加えるのは自分のアイデアなんだって。それで独特のひねりが生まれるんだ、って言ってました」
彼の、アイデア。
私のレシピ、私の独創性、フレーバーの実験に費やしたいくつもの夜。そのすべてが、今では彼の功績になっている。
清水友里が突然立ち上がり、ほとんど手をつけていないおにぎりをゴミ箱に叩きつけた。
「清水さん?」
小林沙織が声をかける。
「食欲なくした」
清水友里はそれだけ言うと、部屋を出て行った。
少なくとも、覚えていてくれる人がいる。清水友里は、あのフルーツティーが私のものだと知っている。ベリーをうまく潰す方法も、甘さのバランスの取り方も、彼女が相談に乗ってくれたのだ。なのに今、彼女は私の功績が他の誰かのものにされるのを、ここで黙って聞いていなければならなかった。
植川大輔も、気分が悪そうだった。彼は一日中口数が少なく、すべてを観察しながらも、何も言わなかった。でも、その目に静かな怒りが燃え上がっているのが、私には見えた。
常連の渡辺さんが、娘さんと一緒に夕食に戻ってきた。彼女が案内されたのは二十番テーブル。以前は、私の担当エリアだった場所だ。
「あら、あの優しい子はどこ?」
渡辺さんが、近藤美咲に訊ねた。
「いつも、私がお水にレモンを多めに入れるのを、覚えていてくれたのよ」
「ああ、春菜さんのことですね」
近藤美咲が、愛想よく答える。
「彼女は、もうここには勤めていないんです。でも、私がしっかりお世話させていただきますね」
「勤めていない? どこへ行ったの」
近藤美咲は、一瞬ためらった。
「確か……遠くに引っ越した、とか」
引っ越した。死んだわけじゃない。悲劇的な事故に遭ったわけでもない。ただ、引っ越した。まるで私が自らここを去ることを選び、大切なお客様や仲間たちを見捨てたかのように。
「それは残念だわ」
渡辺さんは言った。
「本当に、素敵な子だったのに。いつも、うちの孫のことを訊いてくれたのよ」
「きっと、そうだったんでしょうね」
近藤美咲はそう言いながら、もう踵を返している。お孫さんのことは訊かない。追加のレモンも持ってこない。お水の補充さえ、忘れている。
植川大輔が休憩のために外へ出て、スマホを取り出した。私は彼の後を追い、彼が近藤美咲のインスタグラムをスクロールするのを見守る。
彼女の最新の投稿。
『新しいお仕事でたくさん学んでる! 支配人がこの最高のフルーツティーのレシピを教えてくれたの――完璧に作れるようになるのが待ちきれない💕 #新たな始まり #職場恋愛』
二十三件のコメント。すべてが彼女を褒めそやし、レシピを訊き、あなたの幸運を羨むものばかり。
植川大輔の手が震えながら、その投稿のスクリーンショットを撮る。
彼は、記録している。証拠を集めているのだ。植川大輔だけは、他の誰もが見て見ぬふりをしていることに、はっきりと気づいている。
彼のスマホが震えた。『母さん』という名前の人からのメッセージだ。
『仕事はどう、大輔? まだ、好きだったあの子のこと、考えてるの?』
植川大輔はそのメッセージを長い間見つめていた。そして、ゆっくりと指を動かす。
『彼女はもういないんだ、母さん。でも、彼女が忘れられないように、俺がなんとかする』
レストランが閉店に近づく頃、近藤美咲と律が一緒に片付けをしていた。彼女はまだ私のエプロンを着て、私の担当だったエリアを使い、彼女の好きな音楽をかけている。
「良い初週末だったな」
律が、彼女に言った。
「あなたが、全部教えてくれたおかげよ」
彼女は、彼の体に寄り添いながら言う。
「井上春菜が、あなたをちゃんと指導してくれてて良かったわ」
指導。まるで私が、彼のただの前任者で、恋人ではなかったかのように。私たちの関係が、ただの職務上の能力開発だったかのように。
二人はキッチンの、窓からお客様にも見える場所でキスをする。公然と見せつけ、自分たちの縄張りを主張している。
私は、職場での関係に何ヶ月も気を遣ってきた。お客様の前で彼にキスしたことなんて一度もないし、私生活が仕事のイメージを損なうことなど、決して許さなかった。でも彼女は、ここにきてまだ一日しか経っていないのに、もうキッチンでいちゃついている。
小林沙織は、わざと大きな音を立ててグラスを洗っている。清水友里は、攻撃的なほどの正確さでメニューを整理している。植川大輔は、まるで競争でもしているかのように、猛烈な速さでテーブルを片付けていく。
誰もが怒っているのに、誰も何も言わない。なぜなら律は支配人で、近藤美咲は新人、そして私は『引っ越した』ただの元従業員の幽霊だから。
「また明日ね、りっちー」
近藤美咲は、みんなに聞こえるように大きな声で言った。
「また明日」
彼女は去っていくが、その前にまたインスタグラムのストーリーを投稿する。『最高の職場💕明日が待ちきれない!』
明日、彼女はまた、私のものを奪っていくだろう。明日、彼女はまた、私たちの歴史を書き換えるだろう。明日、彼女は私になり続け、ただ、より良いバージョンとして、ここに存在し続けるのだ。
より若く、より可愛く、よりインスタ映えする、私。面倒な家庭の事情も、経済的な苦労も、そして、お腹に宿した命の不安もない、完璧な私。
ソーシャルメディアスキルという、最新の武器を備えた、井上春菜の代替品。
律が店の鍵をかけるのを見ながら、私はあることに気づく。これは、単に仕事や恋人を失ったという話ではない。これは、私の存在そのものが上書きされていく物語なのだ。
明日、私はもっと多くを思い出さなければならない。あの夜のこと、なぜ私が急いで戻っていたのか、そして、植川大輔が私のロッカーで何を見つけたのかを。
なぜなら、もし私がここに囚われ、自分の人生が盗まれるのを、ただ見ていることしかできないのなら。
必ず、真実を白日の下に晒してやる。
その、すべてを。







