第2章

 寝室のドアが唐突に開かれ、不機嫌な顔をした井戸川勇崎が姿を現した。

「昨日は客間で寝たのか?」

「ええ。体調が優れなかったから、あなたの睡眠を邪魔したくなくて」

 私は淡々と答えた。

「たかがアレルギーだろ?」

 彼の声のトーンが一気に跳ね上がる。まるで火のついた爆竹のようだ。

「昨日から今日にかけて、まるで世の終わりのように騒ぎ立てやがって! 北倉佳菜、お前いい加減その幼稚な態度を改めたらどうだ?」

 怒りで赤く染まった彼の顔を見つめながら、私はふと、彼がまったく見知らぬ他人のように感じられた。

 アレルギーのせいで、私が昨日死ぬ思いをしたことを、彼は知っているのだろうか?

 いや。

 知るはずがない。

 彼にとってはどうでもいいことなのだから。

「そういえば」

 彼はポケットからスマートフォンを取り出すと、一枚の写真を表示して私の目の前に突きつけた。

「今日は楚々の誕生日だ。これと全く同じケーキを作れ」

 画面には、白石楚々の似顔絵キャラクターがデコレーションされた、手の込んだ二段重ねのケーキが映っていた。

「分かったわ」

 私は拒否しなかった。

 井戸川勇崎は一瞬虚を突かれたように動きを止め、さらに眉間の皺を深くした。

「ずいぶん素直に引き受けるんだな」

「ええ、問題ないわ」

 彼の顔に不快な色が走る。だが、怒りを爆発させるもっともらしい理由が見つからないらしく、捨て台詞のように言い放って背を向けた。

「なら、さっさと作れ!」

 私は少し不思議に思った。彼は何がそんなに気に入らないのだろう?

 私が素直すぎたから?

 それとも、私が嫉妬を見せなかったから、面白くないのだろうか?

 私は自嘲気味に笑った。

 スマホが震え、送金通知が表示される。

 井戸川勇崎から十万円が送られてきていた。

『手間賃だ』

 私はその数字を見つめ、指先で「返金」をタップした。

 そして返信する。

『いらないわ。報酬はずっと前に受け取っているから』

 記憶が、不意に蘇る。

——

 今となっては想像もつかないけれど。

 八年前、生まれて初めて男性からもらったケーキ。

 それは、井戸川勇崎が作ったものだった。

 正直なところ、不味かった。クリームは泡立てすぎでボソボソ、スポンジはパサパサで、砂糖の分量も間違えたのか異常に甘かった。

 それでも、私は「甘くて美味しい」と笑って食べた。

 彼が私のために、手作りしてくれたものだったから。

 ただその不味いケーキ一つで、私は彼を受け入れた。ゼロからの起業に付き合い、二人だけの小さなスタジオから現在の規模になるまで、彼と共に会社を大きくしてきたのだ。

 今思えば、あのケーキは確かに甘かった。

 喉が焼けるほどに。

 私の脳みそが麻痺して、彼の愛を信じ込んでしまうほどに。

 けれど、気づくのに遅すぎるということはない。

 人が生きている限り、手遅れなんてことはないのだ。

 私は材料の準備を始めた。手にある火傷の水膨れがズキズキと痛む。

 夕方の六時になり、ようやくケーキが完成した。

 道具を片付けていると、スマホが鳴った。

「北倉佳菜、楚々の誕生会に来い」

 井戸川勇崎の声は命令口調だったが、すぐに声を潜めて続けた。

「言っておくが、今は王様ゲームの最中だ。多少の接触があるかもしれんが、嫉妬なんてして場を白けさせるなよ。みっともないからな」

「住所は送った」と言い捨て、電話は一方的に切れた。

 断ろうかとも思ったが、ふとあの指輪のことを思い出した。

 それは井戸川勇崎の母親の形見であり、八年前に彼が私の指に厳かにはめてくれたものだ。

 去るというのなら、このような高価で重い意味を持つものは、直接返さなければならない。この八年間の感情に決着をつけるためにも。

 私はシンプルな服に着替え、ケーキの箱を提げて家を出た。

 個室の中は熱気に包まれていた。

 ドアを開けると、ちょうど井戸川勇崎が酒の入ったグラスを掲げ、人垣の中心に立っているところだった。

「次!」

 誰かが叫ぶ。

 一人の男がカードを引き、読み上げた。

「王様の命令! 3番と7番が三十秒間キスをする!」

 井戸川勇崎が手元の3番のカードを見せる。

 そして、白石楚々が恥ずかしそうに7番のカードを挙げた。

 周囲はヒューヒューと囃し立て、早くしろと煽っている。

「北倉さん、気になりません?」

 白石楚々の友人が不意に私の方を向き、挑発的な視線を投げてきた。

 個室が一瞬にして静まり返る。

 井戸川勇崎が眉をひそめて私を見やり、余計なことをするなと目で牽制してくる。

「いいえ、気にならないわ」

 私は微笑んで答えた。

「今日は楚々さんの誕生日ですもの。彼女が楽しければそれでいいの」

「北倉さんって心が広いのね!」

「勇崎さんは幸せ者だなあ!」

 歓声が上がる中、井戸川勇崎は俯いて白石楚々の唇を塞いだ。

 私は悲しいとは思わなかった。ただ淡々と、井戸川勇崎に物を渡すタイミングを待っていた。

 しかし、彼の周りには常に人が群がっている。

 宴も終盤に差し掛かった頃、ようやく彼が千鳥足でトイレへと向かった。

 私はその後を追った。

 廊下は静かだった。

「井戸川勇崎」

 私は彼を呼び止めた。

 彼は振り返る。その目は焦点が定まっていない。

「なんだ?」

 言葉を交わす間もなく、彼はまた嘔吐してしまった。これではまともな会話などできそうにない。

 仕方なく、私は手提げ袋から小さな箱を取り出した。

 指輪が冷ややかな光を放っている。

 彼に聞こえていようがいまいが、構わなかった。

「これ、お母様の形見でしょう。私が持っているわけにはいかないから」

 井戸川勇崎は目を細め、無造作にそれを受け取った。まるで価値のない玩具でも扱うかのような手つきだった。

 これでいい。

 これで、本当に終わりだ。

「北倉佳菜」

 背後から声がかかる。

 振り返った瞬間、堪えていた涙がこぼれ落ちた。

 彼は不思議そうに言った。

「なんで泣いてるんだ?」

 その姿は八年前よりもずっと洗練され、男らしくなっていた。だがこの瞬間の口調だけは、珍しく当時のままだった。

 けれど、それも一瞬のこと。

 酔いが冷めれば、彼はまた別の女を愛する井戸川勇崎に戻るのだ。

 私は彼を支えて車に乗せた。

 運転手が「乗らないのですか」と尋ねてきたが、私は首を横に振った。

 車が走り出し、テールランプが夜の闇に溶けていく。

 私はスマホを取り出し、井戸川勇崎とのすべてのチャット履歴を削除した。

 八年分の会話が、こうして空っぽになった。

 その時、画面に新しい通知がポップアップした。

「北倉佳菜様、盛世投資銀行の面接は明日の午前九時です。住所は送信済みです」

 私は指を動かす。

『了解しました。時間通りに伺います』

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