第1章
「神代雪璃、もう一度だけ訊く。なぜ故意に車で優心を撥ねた?」
霧生嵐の声は、氷のように冷徹だった。
会員制クラブのビリヤード室。神代雪璃は散乱したガラスの破片の上に跪かされていた。
鋭利な破片が膝に食い込み、鮮血が脚を伝って流れ落ち、高級な絨毯を赤黒く染めていく。
激痛に全身が震えるが、彼女は微塵も動くことができなかった。
「私じゃない……嵐、本当に私じゃないの……」
神代雪璃は顔を上げ、霧生嵐を見つめた。かつては明艷で誇り高かったその顔も、今は恐怖に歪んでいる。
「私じゃない、彼女が自分で……きゃあっ!」
言葉は最後まで続かなかった。
霧生嵐が彼女の肩を容赦なく蹴り飛ばしたのだ。
神代雪璃は仰向けに倒れ込み、背中が無数のガラス片に打ち付けられる。全身を走る激痛に、意識が遠のきそうになった。
「まだ嘘を吐くつもりか!」
霧生嵐は彼女を見下ろした。その瞳には怒りの炎が宿っている。
「優心は今も病院のベッドの上だ。脚はもう使い物にならない! 二度と踊れない体になったんだぞ! 神代雪璃、お前もダンサーなら、それが何を意味するか分かるだろう!」
「やってない!」
神代雪璃は全身の力を振り絞って叫んだ。血と涙が混じり合い、その姿はあまりにも無惨だった。
「あの女が……あの女が私を嵌めたのよ!」
「嵌めただと?」
霧生嵐は冷笑した。
彼は一歩ずつ彼女に歩み寄る。手にしたビリヤードのキューが床を引きずり、重苦しい音を立てた。
「なぜ優心がお前を嵌める必要がある? お前の顔が良いからか? それとも、お前が神代家の『お嬢様』だからか?」
彼の眼差しには、軽蔑の色しか浮かんでいない。
「神代雪璃、お前には反吐が出る」
神代雪璃は恐怖に慄いた。
霧生家はH市で最も強大な権力と財力を持つ一族だ。
その唯一の跡取りである霧生嵐の一言は、無数の人間の運命を左右する。彼女も、そして神代家も例外ではない。
神代雪璃はH市の名家、神代家の令嬢であり、名門大学を卒業し、市のトップ舞踊団でプリンシパルを務めるダンサーだった。
幼い頃から霧生嵐に恋い焦がれ、彼の後ろを金魚の糞のようについて回り、ありったけの情熱と勇気を注ぎ込んで、ようやく婚約まで漕ぎ着けたのだ。
あれほど愛している彼との幸せを目前にして、なぜ月見優心を車で撥ねるなどという愚かな真似をするだろうか?
自らの手で幸せを壊すようなことをするはずがない。
だが、どれだけ弁明しても、どれだけ泣いて訴えても、霧生嵐は一言も信じようとしなかった。
彼は自分の目で見たものだけを信じ、月見優心の言葉だけを信じている。
彼が握りしめているキューを見て、恐ろしい予感が脳裏をよぎった。
「やめて……嵐、やめて……」
彼女は必死に後ろへ這って逃げようとした。ガラス片がさらに深く体に突き刺さるが、もはや痛みなど感じなかった。
「お願い、一度だけでいいから信じて……」
霧生嵐は彼女の目の前で立ち止まり、ゆっくりとキューを振り上げた。
「お前は優心の脚を奪った」
彼は無機質な声で告げた。
「なら、お前の脚で償ってもらおうか」
「嫌ぁぁぁっ――!」
鈍い音と共に、キューが神代雪璃の左膝に振り下ろされた。
バキッ!
骨が砕ける音が室内に響く。
「あぁぁぁぁぁッ!!!」
神代雪璃の口から、この世のものとは思えない凄絶な悲鳴が迸った。冷や汗が一瞬にして衣服を濡らす。
目の前が真っ暗になるほどの激痛に、体は痙攣を止められない。
霧生嵐はキューを放り捨てると、まるで汚らわしい物に触れたかのように、スーツのポケットからハンカチを取り出し、指を入念に拭った。
彼はしゃがみ込み、苦痛に顔を歪める神代雪璃を見つめ、冷ややかに言った。
「その痛みを忘れるな。その脚が優心への償いだ。殺しはしない、死んで楽になるなど許さん。俺たちの精算は、まだ始まったばかりだ」
そう言い捨てて立ち上がると、彼は携帯電話を取り出し、神代雪璃の目の前で番号をダイヤルし、スピーカーモードに切り替えた。
電話の向こうから男の声が聞こえる。
『もしもし? どちら様かな?』
彼女の父、神代永世だった。
「神代社長」霧生嵐は言った。「霧生嵐だ。あんたの娘、神代雪璃は『殺人未遂』の現行犯で俺が確保した。間もなく警察が到着する」
『何だと!? 馬鹿な!』神代永世の声が裏返った。『嵐くん、何かの間違いだ! 娘に代わってくれ! 私が直接話を聞く!』
「間違い?」霧生嵐は鼻で笑った。「俺がこの目で見たんだ。人証も物証も揃っている。神代社長、警察がこれを間違いだと判断すると思うか?」
彼は一呼吸置き、声をさらに低くした。
「選択肢をやろう」
「この殺人未遂犯の娘と絶縁するか。そうすれば神代グループの安全は保証する。あるいは、娘を庇うか。その場合、神代グループは明日にもH市から消滅することになる。好きなほうを選べ」
電話の向こうに、長い沈黙が落ちた。
神代永世の荒い息遣いが聞こえる。彼には、電話越しに娘の苦痛に満ちた呻き声が聞こえているはずだ。
やがて、神代永世のしゃがれた声が響いた。
『神代家に……そんな娘はいない。その女のことは、今後一切神代家とは無関係だ!』
言い終わるや否や、後悔するのを恐れるかのように電話は乱暴に切られた。
プー、プー、プー、という無機質な電子音だけが残る。
神代雪璃は血の海に横たわったまま、その音を聞いていた。
ふと、笑いが込み上げてきた。
乾いた笑い声はやがて涙に変わる。
結局のところ、自分という娘は、いつでも切り捨てられる駒に過ぎなかったのだ。
私が死ねば、みんな幸せになれるのだろうか?
二年後、H市女子拘置所。
「神代雪璃、番号〇七二一。出所だ! 荷物を持ってさっさと行け!」
重厚な鉄扉が軋んだ音を立てて開き、刺すような日差しが差し込んだ。
神代雪璃は目を細め、眩しさに顔をしかめた。
手にはビニール袋が一つ。中身は数枚の古着と、わずかな小銭だけ。
彼女は左脚を引きずりながら、よろよろと外へ出た。
二年の獄中生活は彼女を変えてしまった。
艶やかだった長髪は短く刈り込まれ、肌は土気色になり、頬はこけ、顔には薄い傷跡が残っている。
左脚は不自由に曲がり、一歩歩くごとに骨身に染みる痛みが走った。
冬の風は冷たい。神代雪璃は薄手の粗末な上着をきつく合わせ、荒涼とした郊外のバス停で身を縮めていた。
本数が極端に少なく、数時間待ち続けることも珍しくない。
吹雪が強まり、唇は紫色に変色し、体の震えが止まらない。
ようやく、一台のバスがやってきた。
彼女は苦労してタラップを上がり、窓際の席に座り込んだ。
乗客は少なく、暖房も入っていない。
窓ガラスに頭をもたせかけ、虚ろな瞳で飛ぶように過ぎ去る景色を眺めていた。
キィィィッ!
突然、バスが急ブレーキをかけた。
神代雪璃の頭が窓ガラスに激しく打ち付けられ、目の前に星が散る。
「おい! どこ見て運転してやがる!」
運転手が窓から身を乗り出し、前方の黒い車に向かって罵声を浴びせた。
漆黒のマイバッハが道路を塞ぐように横付けされており、バスのフロントガラスと衝突寸前の距離で停まっていたのだ。
運転手は怒り心頭でバスを降りて詰め寄ったが、すぐに顔面蒼白になって戻ってきた。
彼は神代雪璃の席まで駆け寄ると、震える声で懇願した。
「お嬢さん、頼むから降りてくれ! 前の大物はお前さんが目当てらしいんだ。俺みたいな一般人には関わりきれねえよ!」
神代雪璃は訳が分からなかったが、有無を言わさぬ雰囲気に立ち上がるしかなかった。
凍てつく寒さと古傷の痛みで足元がおぼつかず、バスを降りた瞬間、彼女は無様に雪溜まりの中へ転がり落ちた。
這いあがろうとして、目の前に一点の曇りもなく磨き上げられた黒革靴があることに気づく。
バサッ。
黒い傘が開かれ、彼女の頭上に降り注ぐ雪を遮った。
神代雪璃がおそるおそる顔を上げると、そこにはあの冷酷で美しい顔があった。
全身が、恐怖で凍りついた。
