第三章
私は病室のベッドに横たわっている。
三十分前、私の身体からは400ccもの血液が抜き取られ、隣室にいる平塚桂衣のもとへと運ばれたばかりだ。聞いたところによると、私の血を使った平塚桂衣は顔色が随分と良くなり、今は神谷治世がベッドサイドに付きっ切りで、自らスプーンでお粥を食べさせているらしい。
なんて皮肉な話だろう。
私は手を上げ、手の甲に刺さっていた点滴の管を引き抜いた。
鮮血が溢れ出したが、痛みは感じない。
「看護師さん」
私は口を開いた。
当直の看護師が慌てて駆け寄ってくる。
「神谷奥様! 動いてはいけません! 神谷様からは絶対安静と……」
「携帯を貸して」
私は彼女の言葉を遮った。
「電話をかけるから」
「は、はい……どうぞ」
看護師がおずおずと携帯を手渡す。
私はそれを受け取り、記憶に焼き付いている番号を指先でなぞるように入力した。
神谷治世は永遠に知ることはないだろう。私が実は、北園財団の正統な継承者であるということを。
十年前、私は彼に一目惚れをした。彼のために身分を隠して嫁ぎ、爪を隠し、ただの平凡な妻として生きてきたのだ。
彼が火災に巻き込まれた時でさえ、私は崩れ落ちてくる梁を自分の背中で受け止め、火の海の中で死にかけたというのに。
けれど、目を覚ました彼は、平塚桂衣を命の恩人だと思い込んだ。
この十年の献身は、本当にただの笑い話だ。
電話が繋がる。
「福山さん」
私は静かに、だがはっきりと命じた。
「私の『偽装死』を手配してちょうだい。――家に帰るわ」
電話を切り、私は看護師に告げる。
「神谷治世を呼んで」
数分後、神谷治世が不機嫌さを隠そうともせず、ドアを開けて入ってきた。
「今度は何の騒ぎだ?」
私は十年もの間愛し続けたこの男を見つめ、最後となる問いを口にした。
「神谷治世。もし、あの火事の中からあなたを救い出したのが、本当は私だったとしたら――あなたは信じる?」
神谷治世はまるで天下一品の馬鹿話でも聞いたかのように、その瞳に底知れぬ嫌悪を浮かべた。
「北園念、平塚桂衣からとっくに聞いているぞ。お前は彼女に嫉妬するあまり気が狂い、彼女の『命の恩人』という立場さえ奪おうとしているとな。まさかお前がそこまで卑しい人間だとは思わなかったが、本当にお前自身の口からそんな妄言が出るとはな」
彼は身を屈め、氷のように冷たい指で私の顎を掴むと、嘲るように言った。
「あの火事の現場には、俺と平塚桂衣の二人しかいなかった。俺が目覚めた時、手に握りしめていたのは平塚桂衣のネックレスであり、俺を看病していたのは煤まみれになった平塚桂衣だった。それでお前はどうだ? 聞けばあの日、お前は学校のダンスパーティーに参加していたそうじゃないか」
それは、私が重傷を負って入院している事実を隠蔽するために、北園家が対外的に流した偽のニュースだ。北園グループの跡取りが死にかけたなどと、世間に知られるわけにはいかなかったから。
「それに」
神谷治世は語気を強めた。
「平塚桂衣は俺を助けるために、腕に一生消えない火傷の痕を負ったんだ。お前はどうだ? 北園念、お前の身体に一つでも、俺のために負った傷があるのか?」
私は唇を開き、「私の背中を見て」と言おうとした。
そこには、あの時落ちてきた梁によって皮膚が焼け爛れ、肉が焦げて残った、醜くも生々しい傷痕がある。
だが、偏見に曇った彼の目を見て、突然どうでもよくなった。
彼がそれを平塚桂衣の勲章だと信じ込んでいるのなら、一生その「恩人」とやらを守って生きていけばいい。
「あなたの言う通りね、神谷治世」
私は頷き、もう弁解することをやめた。瞳から光が少しずつ消えていく。
「私には不釣り合いだったわ。平塚桂衣さんは……確かに『偉大』ね」
「分かればいい」
神谷治世は手を放し、汚いものでも触ったかのようにティッシュで指を拭った。
「目が覚めたなら死んだふりなんかするな。平塚桂衣にはまだ治療が必要だ。医者の話ではお前の血液型が最も適合するそうだ。いつでも提供できるように待機しておけ」
言い捨てると、彼は背を向け、乱暴にドアを閉めて出て行った。
彼の背中を見送り、私は再び携帯を手に取ると、電話の向こうでずっと沈黙を守っていた福山さんに、静かに告げた。
「福山さん、計画を始めて。そうね……北園グループから神谷グループへの出資を、すべて引き揚げてちょうだい」
「彼に分からせてあげる時が来たわ。ビジネスという荒波が、いかに簡単に彼を飲み込み、破滅させるほど巨大なものかを」
私自身、生きることと死ぬこと、どちらがより苦痛かという問いに答えは出せない。
けれど、その苦痛に悩み苦しむ人間を、入れ替えることならできる。
そう――例えば、あの無能な神谷治世に。
