第1章
絵里
午後十一時。バーから最後の客がようやく引き上げた。私は無意識に手を動かしてカウンターを拭きながら、頭の中では今夜のチップを計算していた。来月の家賃には、まだ足りない。
「クソッ」最後のグラスを棚に戻しながら、私はそう悪態をついた。
N市はまるで巨大な獣だ。私のような取るに足らない人間を、絶え間なく呑み込んでいく。
半年前は、努力さえすればここでやっていけるなんて甘く考えていた。でも今はもう違う。ここで生き抜くことは、想像していたよりも百倍は過酷だった。
特に今夜みたいに、金持ちのボンボンたちが中途半端に酔っぱらって、いやらしい視線で私を脱がせようとするときは。
コートとバッグをひっつかむと、裏口のドアを押し開けて路地裏に出た。
N市の十月の夜は、身を切るように冷たい。私はジャケットの前をきつく合わせ、歩くペースを速めた。
「よう、お嬢ちゃん。そんなに急いでどこへ行くんだい?」
全身の血が凍りつくのを感じた。
勢いよく振り返ると、そこにいたのは矢澤星海、今夜ずっと私に絡んできた、あの甘やかされたクソガキだった。
「矢澤さん、お店はもう閉まったわ。お家に帰りなさい」私は平静を装って言ったが、心臓はすでに激しく高鳴っていた。
男は笑い、千鳥足でこちらに近づいてくる。「帰る? まだ遊び足りないんだけどな」その視線が、恥も外聞もなく私の全身を這い回る。「いい子ぶるのはやめろよ、なあ。バーで働くお前みたいな女はみんな何かを売ってるんだろ。今夜は倍払ってやる」
カッと頭に血が上った。「ふざけないで!」
「気が強いんだな。そういうの、好きだよ」星海は突然飛びかかってきて、私の手首を掴んだ。「手応えがある方が楽しめるってもんだ」
握られた手首は驚くほど力が強く、安物のコロンと混じった酒の悪臭がむっと鼻をついた。抵抗したが、彼の手は万力のようにきつく締まり、びくともしない。
「離して! 警察を呼ぶわよ!」
「警察?」星海はせせら笑い、空いている方の手で私の制服を引き裂こうとした。「俺の親父が誰だか知ってんのか? この区画一帯は親父のもんなんだぞ。警察だって親父には逆らえないんだよ」
制服のボタンがブチブチと音を立てて弾け飛ぶ。恐怖と怒りが体中を駆け巡った、その時――闇を切り裂くように、低い声が響いた。
「離せ」
星海の動きが止まる。私たちは二人とも声のした方へ振り向いた。闇の中から、長身の人影が姿を現す。薄暗い街灯の光では顔まではっきりとは見えない。けれど、その人物から放たれるただならぬ気配は、肌で感じ取ることができた。
「余計なことするな、てめ」ブラッドリーは虚勢を張って言ったが、その手が震えているのが私にはわかった。
見知らぬ男は答えず、ただ静かに距離を詰めてくる。そして、その姿が光の中に現れた瞬間、私は息を呑んだ。
なんて……。
まるで地獄から這い出てきた悪魔そのものだった。鋭い顔立ちに、深い闇を湛えた瞳。身震いするような、荒々しく危険なカリスマ。黒いコートを纏ったその全身が、捕食者そのものを思わせた。
「最後の警告だ」唸るような低い声だった。「離せ」
星海は明らかに怯んでいた。だが、アルコールと自身の愚かさが、彼に最悪の選択をさせた。
「お前!言っただろ.......」
彼がその言葉を言い終えることはなかった。
それは、私が今まで見た中で最も速く、そして正確な一撃だった。星海が反応する間もなく、拳がその顎を捉え、男はゴミ箱に叩きつけられるようにして吹き飛んだ。
「次に彼女に指一本でも触れたら、その両腕をへし折る」男は、恐ろしいほどの静けさでブラッドリーを見下ろしながら言い放った。
鼻から血を流しながら、星海はよろよろと立ち上がった。明らかにヤバい相手を前に、ようやく酔いが醒めたらしい。「お、お前、俺が誰だか分かってんのか? 俺の親父は.......」
「お前の親父が誰かなんて知ったことか」男がさらに一歩踏み出すと、ブラッドリーは即座に後ずさる。「失せろ」
星海は這うようにしてその場を離れ、負け犬のように逃げ去った。
私は壁に寄りかかり、高鳴る心臓を必死に落ち着かせようとした。あまりに一瞬の出来事で、頭がまだ状況を処理しきれずにいる。
「大丈夫か?」
顔を上げると、命の恩人が心配そうに私を見つめていた。間近で見ると、彼はさらに息を呑むほど整った顔立ちをしていた。
「ありがとう。でも、自分のことは自分でできるから」星海相手に明らかに無力だったくせに、私は強がってそう言った。
「だろうな」彼は皮肉っぽく言うと、自分のコートを脱いで私の肩にかけた。彼の体温でまだ温かいコートは、高級なコロンの香りをさせながら、繭のように私を包み込んだ。「晃だ。怪我は?」
晃。その名前が頭の中で転がった。
「知らない人にはついていかない」私は一歩後ずさった。ここで女一人で生きることは、たとえ助けてくれた相手であろうと、全ての男を疑うことを私に教えていた。
彼は角にある五つ星ホテルを顎で示し、全てを見透かしたような笑みを唇に浮かべた。「じゃあ、その破れた服のまま雨の中を歩いて帰るつもりか?」
その時になって、私は小雨が降り始めていることに気づいた。そして、制服は本当にズタズタに引き裂かれていた。
「タクシーを呼ぶから」私は言い張った。
「その格好で?」彼は片眉を上げる。「運転手は君を娼婦だと思うだろうな」
クソッ、彼の言う通りだ。今の私は見るからにひどい有様だった。
雨脚は強くなっていく。私は躊躇した。この謎めいた男は私を救ってくれたし、変質者のようには見えない。そして何より、私には着替えをして身なりを整える場所が本当に必要だった。
「トイレを借りるだけよ」私は念を押した。
「もちろんだ」彼の笑みには、致死的な魅力があった。「安全は保証する」
二十分後、私はホテルのプレジデンシャルスイートに立ち、あまりの衝撃に言葉を失っていた。
床から天井まである窓からは、きらびやかなM区の摩天楼が一望できる。この部屋は私のアパートの十倍は広く、まるで映画のセットのようだった。
「あなた、一体何者なの?」私は振り返って尋ねた。
晃はバーカウンターで、自分のためにウィスキーを注いでいた。明るい照明の下で、彼の顔がはっきりと見える――女たちを狂わせるような、そんな顔立ち。
「ただの寂しい男だ」彼はそう言うと、私にグラスを向けて、一気に飲み干した。。
彼の瞳に一瞬よぎった痛みの影はあまりにリアルで、私の心は不覚にも和らいでしまった。
「今日は……大事な日になるはずだった。だが、彼女は他の男を選んだ」彼の声には、アルコールと苦々しさが滲んでいた。
「まだ彼女を愛してるの?」なぜそんなことを尋ねたのか、自分でも分からなかった。
彼は自嘲的に笑い、窓辺へ歩いていく。「さあな。ただ、捨てられるのが嫌なだけかもしれない」彼は私の方へ向き直り、その瞳に危険な光が揺らめいた。「君は、自分を救ってくれた人間を捨てるか?」
やられた。この男には、視線を逸らすことすらできない、致死的な引力があった。
今夜のトラウマで私の感情が剥き出しになっていたからか、それとも彼の瞳に宿る孤独が私の何かを刺激したのか、彼がゆっくりとこちらに歩み寄ってきた時、私は後ずさりしなかった。
「綺麗な」彼はそう言って、その手が優しく私の頬に触れた。「男に、独占したいと思わせるほどに」
立ち去るべきだった。理性が、これは危険だと叫んでいた。けれど、私の体は脳を裏切った。
彼の唇が私の唇に重なった瞬間、世界中が燃え上がるのを感じた。
その夜、私は完全に堕ちた。
午後の日差しが窓から差し込む中で、私は目を覚ました。寝ぼけ眼でベッドの隣を探ったが、そこには空っぽの空間が広がるだけだった。
「晃?」私は身を起こし、辺りを見回した。
スイートルームは空っぽだった。
ナイトスタンドの上には、一枚の名刺と札束が置かれていた。震える手で名刺を拾い上げる――「五島晃」という名前と電話番号。現金は15万円
だった。
私は名刺に書かれた番号に電話をかけた。
『おかけになった電話番号は、現在使われておりません……』
雷に打たれたような衝撃だった。
偽の名刺、偽の名前、そして15万円の「お礼」まるで娼婦への支払いのように。
これほど屈辱的な思いをしたことは、生まれてこの方一度もなかった。昨夜の優しさも情熱も、全てが手の込んだ遊びだったのだ。そして私は、その愚かな獲物だった。
部屋にはまだ彼のコロンの香りが残っている。あの高価な香りが、今では嘲笑の匂いにしか感じられない。私は涙がこぼれ落ちそうになるのを、奥歯を噛みしめて必死にこらえた。
「水原絵里、あんたって本当にバカ!」
私はその場で固く誓った――もう二度と、男なんて信じない。
絶対に。









