第3章

絵里

心臓が止まるかと思った。

あのシルエット……ありえない……絶対にありえない……。

窓がゆっくりと下りていく。ガラスを滑り落ちる雨筋は、まるで私の顔を伝う涙のようだった。

そして、彼が見えた。

晃。

あの忌々しい顔、あの深い瞳、そして雨の夜だというのに匂い立つ、嗅ぎ慣れたコロンの香り。

「助けが必要かい、絵里?」彼の声は相変わらず人を惹きつける力があったが、私の背筋をぞっとさせた。

私はその場に凍り付き、雨が顔を打ちつけても冷たさを感じなかった。感じたのはただ、怒り、白熱した、燃え上がるような怒りだけだった。

「晃?」私の声はひどく震えていた。「どうしてここに?どうして私の名前を?」

彼は、あの忌々しい魅力的な笑みをかすかに浮かべた。

「車に乗れ、絵里。話がある」

「何の話よ?」私は一歩後ずさった。「あなたは二ヶ月も姿を消したじゃない! 二ヶ月もよ! 何の連絡もなしに!」

「俺の本名は藤原和也だ」彼はまるで天気の話でもするように、平然と言った。「晃というのは、気に入って使っている偽名に過ぎない」

「やっぱり!」私は通行人の視線も気にせず叫んだ。「この嘘つき野郎!」

和也はポケットから名刺を取り出し、私に突きつけた。薄暗い街灯の下でも、金色の箔押しされた文字が見て取れた。

「藤原不動産グループ、代表取締役」彼の口調は完全に平坦だった。「さあ、車に乗れ」

藤原不動産グループ……

私は名刺を見つめたまま、指がひどく震えて、ろくに持つこともできなかった。これは現実じゃない。絶対に、現実のはずがない。

「嘘よ」私は首を横に振った。「嘘つき!」

車のドアが開いた。

「絵里、もう一時間も雨の中に立っている。乗らないと肺炎になるぞ」

彼の気遣いは、私をさらに怒らせた。

「余計なお世話よ!」私は名刺を彼に投げ返した。「この二ヶ月、私がどんな思いでいたか分かるの? 今日、仕事をクビになったことも? 家がないことも? 私が……」

私は言葉を止めた。妊娠している、と、もう少しで言いそうになった。

「妊娠していることは知っている」

脳内で稲妻が炸裂した。

「え?」

和也が車から降りてくると、私の頭上に黒い傘が差し出された。雨は当たらなくなったが、かえって寒気がした。

「最初のつわりの時から知っていた。部下が君を見守っていたからな」

「部下?」何かが喉に詰まるような感覚がした。「どういうこと?」

「車に乗れ、絵里。ここで話す内容じゃない」

拒否したかった。背を向けて逃げ出したかった。けれど、足は鉛のように重かった。

私には行く場所がない。その恐ろしい事実に、気づいてしまったからだ。

トヨタセンチュリーの車内は、息が詰まるほど豪華だった。

革張りのシート、クリスタルのデキャンタ、そしてミニバー。この車はきっと、私の年収よりも高い。

「どうして嘘をついたの?」私はシートの隅に縮こまり、できるだけ彼から離れた。

和也は私の向かいに座り、優雅に二つのグラスに飲み物を注いだ。

「君が金目当てでないことを確かめる必要があった。今、そうでないと分かった」

「どういう意味?」

「そこで二ヶ月間働いて、一度も俺の名前をネットで検索しなかった」彼はグラスを一つ差し出した。「アカデミー賞ものの女優でもない限り、君は俺の正体を全く知らなかったということだ」

私はグラスを押し返した。

「飲まないわ」

「妊娠しているからな」彼は頷いた。「それでいい」

窓の外を、N市の夜景が流れていく。私たちはどこへ向かっているのだろう?

「『部下が見守っていた』って言ったわね」私は彼の瞳をまっすぐ見つめた。「説明して」

和也は自分のグラスを一口飲み、それを置いた。

「アパートの大家、元上司、俺から金を受け取っている。俺はずっとお前を観察していた」

血の気が引いた。

「二ヶ月間、私をストーキングしてたってこと?」私の声はかろうじて囁きになった。「……キモイ。最低の変態!」

「二ヶ月間、君を守っていたんだ」と彼は訂正した。「君にちょっかいを出してきた客たちは、俺の部下が“説得”した。面倒をかけていた支配人は、別の店舗に異動になった」

急に消えていった数々の問題、困難なはずだったのに、なぜかうまくいってしまったこと……それらを思い返した。

「じゃあ、今日のことは……」

「今日、彼らは新しい指示を受け取った」和也は悪びれる様子もなかった。「次の段階に進む時だったんでな」

つわりではなく、恐怖で吐き気がした。

「私を何だと思ってるの?実験用のネズミか何か?」

「君は俺の子の母親だ。俺のだ」

車が止まった。

窓の外を見ると、そこは最も高級な住宅街だった。目の前に摩天楼がそびえ立ち、そのペントハウスの灯りが、星のように瞬いていた。

「新しい家へようこそ」と和也は言った。

エレベーターに乗っていると、めまいがした。

50階……51階……52階……

エレベーターのドアが開くと、そこには今まで見たこともないほど豪華なアパートが広がっていた。

広さ二万平方フィートの空間、M区を一望できる床から天井までの全面窓、イタリア産大理石の床、手織りのペルシャ絨毯、そして値段のつけようもない美術品の数々。

「ここの家賃は月3000万円だ」和也はコートを脱ぎ、ドアのそばにあるハンガーラックにかけた。「今日から君のものだ」

私は入り口に立ち尽くし、中に足を踏み入れるのをためらった。

「こんな場所、私には払えないわ」

「変なこと言うな」彼は巨大なウォールナット材のデスクに歩み寄り、一通の書類を手に取った。「これにサインするだけでいい」

私はゆっくりと歩み寄り、その契約書を受け取った。

そのタイトルに、心臓が止まった。『専属コンパニオンサービス契約書』。

「7億円、契約期間は一年」背後から和也が言った。「ここに住み、俺の全ての要求に従うんだ」

私は彼の方を振り返った。目には怒りの炎が燃え盛っていた。

「私を何だと思ってるの?高級娼婦か何か?」

「お前は俺の子の母親だ。俺のだ」と、彼は感情のない声で繰り返した。

「もし断ったら?」私は契約書をデスクに叩きつけた。

和也は全面窓まで歩いていき、私に背を向けた。背後で瞬くM市の灯りが、彼をまるで地獄から来た堕天使のように見せていた。

「そうなれば、お前を受け入れる病院も、助けてくれる弁護士も、匿ってくれるシェルターも見つからなくなるだろう」彼の声は氷のように冷たかった。「子供が生まれるまで路上で生活することになる。そして……」

彼は振り返った。その瞳には、今まで見たこともないような闇が宿っていた。

「その後は、合法的な手段で俺の子をこちらに引き取る」

膝から力が抜け、私はその場に崩れ落ちそうになった。

「そん……そんなこと、できるはずが……」

「できるさ。俺は藤原和也だ。この街では、俺が望むことは何でもできる」

私は契約書に目を落とし、次にこの息の詰まるような豪華なアパートを見渡し、そしてかつては優しいと思っていたこの男を見た。

お腹の中の子供のことを思った。

雨の中での絶望を思った。

私にはもう何も残されていないことを思った。

震える手で、私はペンを手に取った。

「あなたなんて、大嫌い……」サインをしながら私は言った。涙が紙の上に滴り落ちる。「大嫌いよ……」

和也は歩み寄り、二ヶ月前と全く同じように、私の頬を優しく撫でた。

「すぐに慣れる」彼は囁くように言った。「俺がお前を守っていることが、すぐに分かるようになるさ」

私は自分の名前を署名した。

水原絵里、と。

その瞬間、自分の魂を売り渡してしまったような気がした。

「それでいい」和也は契約書を回収した。「明日は俺の家族に会ってもらう。きっと、お前のことをたいそう“可愛がって”くれるだろう」

彼が去り際に浮かべた笑みは、私の全身をぞっとさせた。

私はこのきらびやかな牢獄に一人で立ち尽くし、自分が想像を絶するほど深い地獄に足を踏み入れてしまったことを悟った。

そして、これはまだ始まりに過ぎなかった。

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