第1章
鼻をつく消毒液の臭いに、月見華の目は痛みでしばたたいた。
病院の手術台の上。彼女の額には脂汗が滲み、下半身からは鋭利な痛みが波のように押し寄せてくる。
唇を強く噛みしめなければ、嗚咽が漏れてしまいそうだった。
「我慢して。すぐに終わる」
医師の声は平坦で、まるで生命のない物体を処理しているかのようだ。
手術室の外では、母の藍原蛍が電話をかけているのが聞こえる。その声は媚びへつらい、どこか焦燥を帯びていた。
「誠山秘書、ご安心ください。手術はもうすぐ終わります。はい、はい、響さんのご要望には常に協力しておりますので、来期の投資金の件ですが……」
ドアの隙間から漏れ聞こえるその言葉は、すでに傷だらけになった月見華の心に深く突き刺さった。
彼女の苦痛も、尊厳も、母にとっては鴉崎響から投資を引き出すためのチップに過ぎないのだ。
下半身の鋭い痛みが、月見華をあの悪夢のような新婚初夜へと引き戻す。
あの日、彼女は満ち溢れる愛と共に、自分自身を彼に捧げた。
だが、狂乱の一夜が明けた後、彼女を待っていたのは彼の急変した陰鬱な表情だった。
鴉崎響は純白のシーツを見つめ、底冷えするような声で言った。
「なぜ、血が出ていない?」
彼は月見華に弁解の機会すら与えず、冷酷に断罪した。
「処女じゃないのか。汚らわしい」
その日から、鴉崎響は彼女を「不潔な女」「ふしだらな女」と決めつけた。
どれほど否定しても、返ってくるのは冷ややかな嘲笑だけ。
あろうことか、彼は彼女を病院へ連行し、麻酔なしで修復手術を受けさせたのだ……。
あの骨身に染みる激痛は、彼女が「汚れている」という烙印を、片時も忘れさせないための罰だった。
月見華に反論の資格はない。結婚して以来、彼女が少しでも鴉崎響の機嫌を損ねれば、この手術室に連れてこられ、一日一夜閉じ込められて当時の苦痛を追体験させられる。
今回もまた、月見家のため、他人の顔色を窺うだけのわずかな生存空間を守ろうとして、彼女は鴉崎響の逆鱗に触れてしまった。
そして実の母親が、自ら彼女をこの場所へ送り込んだのだ。
月見華の顔色は紙のように白い。激痛の記憶に足が震え、壁にすがりつきながら、ゆっくりと手術室を出た。
ちょうど電話を切り終えた藍原蛍が、彼女を見て眉をひそめる。
「これからは気をつけなさい。二度と響に逆らうんじゃないわよ。運転手が待ってるわ。今日は光が帰国するんだから、急いで帰るわよ」
月見華は伏し目がちに、瞳の奥の苦渋を隠した。
月見光。異母妹であり、月見家の掌中の珠、誰からも愛される存在。
それに引き換え、自分は父の浮気の証拠であり、母の結婚生活の失敗を象徴する恥辱の柱。いつでも利益と交換できる道具に過ぎない。
華麗だが冷え切った月見家の邸宅に戻ると、空気は一変していた。
「光! やっと帰ってきたのね! 海外で苦労したでしょう? 見て、痩せちゃって!」
藍原蛍は玄関に入ってきたばかりの月見光を抱きしめ、月見華には見せたこともないような真摯で熱のこもった笑顔を向けた。
月見光は洗練された洋装に身を包み、愛らしい笑顔でその寵愛を一身に受けている。
入り口に立ち尽くす月見華を一瞥すると、彼女は口元に微かな笑みを浮かべ、軽やかに言った。
「お姉ちゃんもいたのね」
藍原蛍はようやく月見華の存在を思い出したかのように、笑顔を薄めた。
「何ぼさっとしてるの? 光の荷物を運んであげなさい。本当に気の利かない子だわ」
月見華は無言で歩み寄り、それほど重くもない紙袋を受け取った。
背後の笑い声は彼女とは無関係だ。彼女は余計な影のように、その場から浮いていた。
幸い、藍原蛍は母娘の再会に夢中で、今回ばかりは嫌味を言う暇もなかったようだ。
彼女は厄介払いするように運転手に命じ、月見華を鴉崎家へと送り出した。
だがその夜、さらなる地獄が彼女を待っていた。
夫である鴉崎響が、月見光のために盛大な歓迎パーティーを催したのだ。
会場には名士が集い、グラスを交わす音が響く。
月見華は地味なドレスを着て、気配を消すように片隅に座っていた。
好奇の視線に晒されたくなかった。「ふしだらな女」「汚い手を使って鴉崎家に嫁いだ」という噂は、社交界に知れ渡っている。
彼女が公の場に出るたび、格好の噂の的になるのは避けられなかった。
しかし、鴉崎響は彼女の願いを許さなかった。
彼はグラスを片手に、取り巻きを引き連れて近づいてきた。その美貌は、氷のように冷たい。
「なぜ一人で座っている?」
半月ぶりに会う夫は、やはり不機嫌そうだった。
月見華が答える間もなく、彼は冷笑した。
「そうか、お前は酒の相手をして媚びを売る以外、何もできないんだったな。だが今日の場に、お前の売春婦のような愛想笑いは不要だ。大人しくしているのが身のためだぞ」
その言葉は、平手打ちのように月見華の顔を打った。
周囲の視線が、好奇心から嘲笑へと変わる。月見華は掌を強く握りしめた。
「響さん、お姉ちゃんにそんな言い方しないで……」
月見光がタイミングよく仲裁に入り、自然な仕草で鴉崎響の腕に手を添えた。その目には微かな優越感が宿っている。
月見光を見ると、鴉崎響の表情がわずかに和らいだ。
「光、君は優しすぎる。庇う価値のない人間もいるんだ。彼女がここに座っていられるのは、俺の慈悲に過ぎない」
月見華は目頭が熱くなり、いたたまれなくなって立ち上がった。
「失礼します。気分が優れないので……」
逃げるように化粧室へ駆け込み、溢れそうになる涙を必死に堪えた。
ようやく呼吸を整え、鏡に向かって不格好な笑顔を作ってから外に出た。
テラスの角を曲がろうとした時、彼女の足が止まった。
テラスには、月見光と鴉崎響が向かい合って立っていた。
月見光は上目遣いで、恥じらいと慕情を浮かべている。
「響さん、実は……私、ずっと響さんのことが好きだったの。お姉ちゃんと結婚したことは知ってるけど、どうしても気持ちが抑えられなくて。あの時のことは、月見家が響さんに申し訳ないことをしたわ。私も……力になれなくて」
言葉を詰まらせ、彼女は鴉崎響の手を握った。
鴉崎響は月見華に背を向けていて表情は見えない。だが彼は拒絶せず、ため息交じりに優しく言った。
「君のせいじゃない。君が尽力してくれたことは知っている」
その光景に、月見華の心臓は見えない手で握りつぶされたかのような激痛に襲われた。
かつて、彼の冷酷さは両家の確執のせいだと思っていた。あるいは、あの偏執的なまでの「処女コンプレックス」のせいだと。
だが今、真実が残酷なまでに露呈した。彼が彼女に残酷なのは、心に別の誰かがいたからだ。
しかもその相手は、彼女の妹。幼い頃からすべての人に愛されてきた、月見光だった。
月見華の爪が掌に食い込み、その痛みがわずかに意識を覚醒させた。
鴉崎響がそっと手を伸ばし、風に乱れた月見光の髪を直してやる。その動作は、まるで宝物を扱うかのように優しかった。
その瞬間、彼女の心は完全に砕け散った。
「鴉崎響、汚れたのはあなたよ。今度は私が、あなたを捨てる」
彼女は心の中でそう呟いた。
