第2章

息が詰まるほどの静寂が、私を奈落の底へと引きずり込もうとしていた。

あれだけの混沌——割れたガラスと火花を散らす機材が散乱したというのに、スタジオは何事もなかったかのように静まり返っている。ただ、ブリスの声だけが頭の中で繰り返し響いていた。『知司は、私の声は誰よりもピュアだって……』

「ピュア」——その一言が、鉄槌のように脳天を打ち据えた。スタジオの壁にノイズが走り、砂嵐のテレビ画面のように明滅を始める。

「やめて……あの夜を、思い出させないで……」

私の呟きも虚しく、もう手遅れなのはわかっていた。

目の前に散らばる機材の残骸が闇に溶け、忘れたはずの記憶が濁流となって蘇る。

一年前。シャトー・マーモント・ホテル、ロサンゼルス。

グラミー賞のアフターパーティー。不意に、舌の上にシャンパンの泡が弾けた。グラスの触れ合う音、腹の底に響くベース、高価な香水と欲望が入り混じった匂い。

ああ、あの夜の私は——愚かしいほどに、幸せの絶頂にいた。

大きな窓のそば、シルバーのヴェルサーチェのドレスをまとった私がいた。アトランティック・レコードの太鼓持ちが、私と水野知司は「音楽界のロイヤルファミリー」だとかなんとか騒いでいるのを聞きながら、馬鹿みたいに微笑んでいた。

「この十年で最高のカップルですよ!」

男の言葉に、私は指にはめられた約束の指輪にそっと触れた。すべてを確信していた。式の後、きっとプロポーズしてくれる、と。

部屋の向こう側で、窮屈そうなタキシードを着た知司と目が合った。彼は悪戯っぽくウィンクすると、『愛してる』と唇だけで伝えてきた。

あの眼差し。こんなにも辛い記憶の中でさえ、その視線を思い出すと、心臓が馬鹿みたいに跳ねてしまう。

それが、永遠だと信じていた。

どこからかウェイターが現れ、シャンパンを差し出す。

「アマセさんのために、特別にご用意いたしました」

差し出されたグラスの中、黄金色の泡が不自然なほどゆっくりと立ち上っていた。けれど幸福に酔いしれていた私は、深く考えもせずにそれを受け取った。

「ありがとう」

そう言って、グラスの半分を一気に煽る。

金属を舐めたような、苦い後味。でも、些細なことだった。あの夜は、世界のすべてが私のために輝いているように感じられたから。

それからの二十分は、お祝いの言葉と業界の社交辞令に埋もれ、曖昧に過ぎていった。まだノミネートの興奮が冷めやらず、差し出される手を握り、カメラに笑顔を向けていた。

異変は、唐突に私を襲った。

まずは頭痛——まるで頭蓋骨に直接、杭を打ち込まれるような激痛。部屋がぐにゃりと傾ぎ、人々の顔が滲んだ絵の具のようにぼやけていく。

一体、何が起きているの?

私はバスルームに向かってよろめいた。足が震え、膝から力が抜けていく。パーティーの喧騒は分厚い水の中から聞こえるようで、一歩進むたびに流砂に足を取られるようだった。

バスルームの鏡が、真実を映し出す。そこにいたのは死人のような顔をした女だった——青白く、脂汗を浮かべ、木の葉のように震えている。瞳孔は黒い円盤のように大きく開き、焦点が合っていない。

薬を、盛られた。そんな、まさか。誰かが、私に。

ずっと昔、日本にいた頃、母に道場で護身術を習うように言われたことがあった。あの時、素直に従っていればよかった。

パニックが、毒よりも速く全身を駆け巡った。震える指で、なんとか知司の番号を呼び出す。スマートフォンが、鉛の塊のように重い。

トゥルル……トゥルル……トゥルル……

「知司……助けて……」声はか細く、途切れ途切れだった。「誰かに、飲み物に何か……シャトーのバスルームにいるの……もう、無理……お願い、来て……」

一瞬の沈黙。そして聞こえてきたのは、女の声だった。鋭く、苛立ちを隠そうともしない声。

「トモシさんは今、手が離せないの。もうかけてこないで」

心臓が凍りついた。

「何? 誰なの、あなた。知司はどこ?」

「もうかけてくるなって言ったでしょ」

女は、さらに冷たく言い放った。

「知司!」

電話に向かって叫んだが、急速に力が抜けていく。

だが、通話は切れなかった。スピーカーの向こうから、雑音に混じって焦燥に駆られた声が聞こえる。

「彼女はまだ見つからないのか? 一体どこにいやがるんだ!」

パニックに陥った、切迫した男の声。知司の声だった。忍び寄る闇の中、わずかな安堵が全身に広がった。

彼が私を探してる。私を見つけようとしてくれてる。

その時、別の男の声が騒音を切り裂いた——冷静で、抑揚のない声だった。

「落ち着け。すべては計画通りだ」

計画? 何の計画?

「知司……」

そう囁いたのを最後に足から力が抜け、私は冷たい大理石の床に激しく体を打ち付けた。

指から滑り落ちたスマートフォンが床に落ちる音もなく、意識は深い闇へと沈んでいった。遠ざかる声は、ただの残響と化していた。

記憶の奔流が引き、私は破壊されたスタジオで息を切らしていた。

今になっても、あの夜に聞いた言葉が理解できない。知司は必死に私を探していた。では、彼の電話に出た女は誰? そして、計画について話していた男は……。

ラジオは完全に沈黙したが、私の苦しみは終わらない。

何もかも辻褄が合わない。もし知司があの夜、本当に私を探していたのなら、なぜあんなに早く立ち直れたの? 私が死んでからたった数週間で、どうして幸せそうな二人の写真を投稿できたの?

いくつもの疑問が、死んだはずの私を内側から喰い尽くしていく。……生きながら、ではない。この感覚を、死者は何と呼ぶのだろう。

知司に会わなければ。今すぐ、この瞬間に。

衝動のままに、私は壁を、街をすり抜ける。思考よりも速く、霊体は夜の闇を突き抜けた。次の瞬間、私は知司のアパート——かつての、私たちのアパートに浮かんでいた。

彼はソファに腰掛け、満足げな笑みを浮かべてスマートフォンの画面を滑らせている。完璧なレコーディングを終えた後、私にだけ見せてくれたのと同じ笑顔だ。

私は彼のそばに漂い寄り、その画面を覗き込んだ。そして、込み上げる怒りに体が震えた。

インスタグラム。あいつ自身の、そのくだらないプロフィール。

最初の写真を見た瞬間、絶叫しそうになった。

どこかのビーチに立つ知司とブリス。彼は、かつて私に向けていたのと同じ眼差しで彼女を見つめている。彼女が羽織っているのは彼のレターマンジャケット——スタジオでの作業の後、私がいつも借りていた、あのジャケットだ。

キャプションにはこうあった。

【僕のソウルメイト、ブリス。君といる毎日が、まるで美しい旋律のようだ。#新しいチャプター #永遠の愛】

「ソウルメイト……」言葉が喉に詰まる。「私が死んで、たった一ヶ月で……ソウルメイト……」

彼はスクロールを続ける。どの写真も、前のものより深く心を抉った。

知司がブリスをレピュブリック——私たちの初デートのレストランへ連れて行っている写真。このアパート——私たちが二人で選んだ部屋で、知司がブリスを抱きしめている写真。ハリウッド・ボウルの、私たちの指定席に座る二人の写真。

だが、私を完全に打ちのめしたのは、ある豪華なパーティーで撮られた一枚だった。赤いドレスを着たブリスは完璧に見え、知司の腕には、私が贈ったロレックスが巻かれていた。『音楽を生み出す時、時間は止まる——K・T』と刻印した、あの時計が。

私の時計。彼の腕に。彼女を抱きしめながら。

「この、クズ野郎……」

私が囁く間も、彼は馬鹿みたいに笑いながら、自分の投稿に「いいね」を押している。

怒りが、私の中で一気に爆発した。彼の隣のテーブルに置かれたコーヒーマグが、ガタガタと激しく揺れ始める。テレビの画面がチカチカと点滅した。

「私が死にかけていたあの時、あんたはあの子と寝ていたのね!」

私の叫びは、彼には届かない。

「私が一番あんたを必要としていた時に、あの金持ちのお姫様との未来を描いていたわけ!」

知司は何も気づかず、さらに写真をスクロールしていく。一枚一枚が、鋭い刃となって私の魂を切り刻んだ。

彼の隣のランプが揺れ始めた。部屋の温度が急激に下がり、さすがの彼もスマートフォンから顔を上げた。

「なんだよ、これ……」

彼は腕をさすりながら呟いた。

「私よりあの子を選んだの? いいわ」

窓ガラスが、白い吐息で曇り始める。

「私が復讐を選んだとしても、文句なんて言わせない」

けれど、その前に答えが欲しい。あのパーティーの夜、本当は何があったのか。その真実が。

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