第2章
一睡もできなかった。
眠れるわけがない。宗一郎さんがあの時に囁いたあの数字が、頭の中で何度も反響していたのだから。
午前八時、病院に電話を入れた。宗一郎さんの容態は安定しており、現在は回復室にいるという。美津子さんが付き添っているとのことだった。
つまり、あの家は今、空っぽだということだ。
私は無意識のうちに車を走らせていた。見慣れすぎた街並みを抜けていく。一度も招かれたことのない会員制クラブの前を通り過ぎ、私には手の届かない服を美津子さんが買い漁るブティックの前を通り過ぎる。
昼の光の下で見るその家は、いつもと違って見えた。威圧感が薄れ、ただの一軒の家に見える。
私は鍵を使った。五年前、初めての「お盆の集まり」の後に返しそびれていた鍵だ。
扉が開く。
静寂。
私は玄関に佇んだ。足元には艶やかな黒御影石。格天井から吊り下がった総檜の行灯。上質な白檀の香り。
この家が私の居場所だったことなど、一度もなかった。
初めてここに来た日、美津子さんは玄関で私を出迎えると、私の靴を見てこう言った。「足を拭いてちょうだいね。高い黒御影石なんだから」
二年目のお盆の集まり。彼女は私の手を取り、手のひらを返して眺めた。「看護師の手ね。ガサガサだわ。拓也、あなた、奥さんにローションでも買ってあげなさいよ」
去年のお正月。座敷には彼女の茶道のお仲間たちが集まっていた。美津子さんの声が響く。「拓也があの弁護士のお嬢さんと結婚しなかったなんて、本当に残念だわ。有菜さんだったかしら。名門大学出の」
五年分の、そんな瞬間の積み重ね。小さな切り傷。紙で指を切ったような無数の傷が、少しずつ心を殺していく。
それでも私は、そのすべてを笑顔でやり過ごしてきた。
背後で扉を閉める。
書院。宗一郎さんの書斎だ。彼ならそこを選ぶだろう。
部屋は墨と和紙の匂いがした。彼の文机。彼の座椅子。床の間に掛けられた、彼の祖父の掛け軸。
私はそこへ歩み寄り、掛け軸を持ち上げた。
あった。壁に埋め込まれた小さな金庫。
ダイヤルを回す手が震える。ナナ、ニ、キュウ、キュウ。
カチリ。
扉が開いた。
中にはフォルダーと書類の束。そして、私の名前が書かれた茶封筒。
封筒を取り出し、その場に座り込んだ。もう足が私を支えきれなかったのだ。
几帳面で、抑制の効いた宗一郎さんの筆跡。彼そのものだ。
私は封を開けた。
「綾香さんへ
これを読んでいるということは、君は私の命を救ってくれたのだろう。あるいは、救おうとしてくれて、私が力尽きたか。どちらにせよ、伝えておきたいことがある。
五年間、私は君を見守ってきた。変な意味ではない、祖父のような気持ちでだ。血のつながりはないが、君は私にとって実の娘のような存在だ。少なくとも、あの息子よりもずっと娘らしくね。
美津子が君をどう扱っているか。拓也がそれをどう黙認しているか。君がそのすべてを笑顔で受け流し、食事を出し、片付けをし、一度も不平を言わなかったことも知っている。
三年前のお正月、みんなが旅行へ行った時のことを覚えているかい? 君は残った。料理が得意じゃないからと、簡単な味噌汁を作ってくれたね。一緒に落語番組を見てくれた。もっと楽しい場所に行けたはずなのに、君は私のそばにいてくれた。
あの時、わかったんだ。君は本物だ。私の妻は違う。息子も違う。だが君は……君だけは本物だ。
この金庫の中には以下のものが入っている。
書き直した遺言書。桐島商事の株の40%を君に譲る。
拓也の横領の証拠。三年間で二億三千万円だ。
美津子の不貞の証拠。そして、それ以上の悪事の証拠も。
新しい婚前契約書。古いものを無効にするものだ。
小切手。君の奨学金の返済分だ。知っていたよ。君は誰にも言わなかったが、私には目があるからね。
これらをどう使うかは君の自由だ。使わなくてもいい。君が選びなさい。
だが、綾香さん、頼む。これ以上、彼らに君を軽んじさせてはいけない。
今夜、君は私の命を救った。今度は私に、君の人生を救わせてほしい。
敬愛と感謝を込めて
宗一郎」
手紙の文字が滲んだ。瞬きをすると、自分が泣いていることに気づいた。
誰かが見ていてくれたのだ。そのすべてを。笑顔も、努力も、懸命さも。
誰かが、気づいてくれていた。
私は涙を拭い、金庫の中を見た。
きちんとラベルが貼られたフォルダーの束。
『桐島商事 遺言書』……私はそれを開き、法的な文言を目で追った。そこにあった。「桐島綾香に全株式の40%を……」
『桐島拓也 財務記録』……銀行の取引明細。送金控え。会社の口座から海外のペーパーカンパニーへ金が動いている。合計二億三千万円。すべて拓也の名義だ。
『桐島美津子 個人資料』……写真だ。見知らぬ男。メモによれば「橋本」、一家のもう一人の顧問弁護士だ。そして医療記録。生命保険金が二十五億円に増額されている。宗一郎さんの処方薬――六ヶ月前に「服用中止」となっているはずのもの。
彼女は心臓の薬を補充するのをやめていたのだ。
彼女は、彼を殺そうとしていた。
手が冷たくなった。
『婚前契約書 改定版』……完全に理解できない法的な言葉も並んでいたが、要約は明確だった。「離婚の際、桐島綾香は全夫婦財産の50%を保持する」
そして、金庫の底には小切手があった。
私宛ての小切手。
二千五百万円。
私の奨学金の残高、まったく同じ金額だった。
一円単位まで。
私はこの金額を誰にも言ったことがない。拓也にも、友人にも。それは私の恥であり、重荷であり、秘密だったから。
けれど、宗一郎さんは知っていた。
私は書斎の床に座り込んでいた。証拠に、証明に、そして「武器」に囲まれて。
五年間、私はこの家にふさわしい人間になろうと必死だった。美津子さんに認められようと、拓也に敬われようと努力してきた。
それなのに、その間ずっと私を見てくれていたのは、私に価値を見出してくれていたのは……たった今、私が救ったその人だけだったのだ。
スマートフォンが震えた。
見たくなかったが、長年の習慣はそう簡単に消えない。
拓也から「離婚の話し合いが必要だ。弁護士を交えて明日午後二時に。綾香、頼むから聞き分けよくしてくれよ」
聞き分けよく。
私はその言葉を読み返した。
聞き分けよく。
過去の五年間の扱いが、道理にかなっていたとでも? 母親のあの残酷さが? 父親の会社から二億三千万円を盗むことが?
私は周囲に散らばる証拠を見た。手の中にある小切手を見た。宗一郎さんの手紙を見た。
私は返信を打った。
「二時にお会いしましょう」
聞き分けよくするとは言わなかった。
小林誠司を連れて行くとも言わなかった。
「聞き分けのいい妻」は、もう終わりだとも言わなかった。
