第3章
あの金庫を開けた二日後、私は午後二時ちょうどに森下総合法律事務所のオフィスへと足を踏み入れた。
法律事務所特有の、革と金の匂い。重厚なダークウッド。床から天井まで届く巨大な窓。待合室に座っているだけで一時間八万円も請求されるような、そんな場所だ。
拓也はすでに来ていた。
ガラス張りの会議室の中、その姿が見える。
新調したスーツ。チャコールグレー。完璧な仕立て。おそらくデザイナーズブランドだろう。あんな服、見たことがない。
きっと美津子さんさんが買い与えたに違いない。あの人の趣味だけは、いつだって一流だから。
彼は電話越しに何かを話して笑っていた。リラックスし、自信に満ちている。
まるで、何でもない火曜日の午後であるかのように。
五年もの間、自分にふさわしい妻であろうと努力し続けてきた女性と、今まさに離婚しようとしている男の態度ではなかった。
小林誠司が私の横に並んだ。五十代半ば、白髪交じりの髪に鋭い眼光。
「準備はいい?」
私は頷く。
私たちは中へ入った。
拓也が顔を上げる。その笑みは、目までは届いていない。
「綾香」彼は立ち上がり、まるでここが自分の城であるかのように椅子を示した。「来てくれてありがとう」
来てくれてありがとう、だって? 自分の離婚協議の場に?
私は席に着き、誠司さんも隣に座る。
拓也の弁護士――名札によれば白石という男――が書類を整え、咳払いをした。
「それでは要点を申し上げます。五年前にご署名いただいた婚前契約書の規定により、桐島様には以下の権利を放棄していただくことになります――」
「どの婚前契約書のことでしょうか?」誠司さんの声は穏やかで、愛想さえよかった。
白石さんが瞬きする。「ご結婚前にお取り交わしいただいたものです。一般的な条項となっておりまして――」
「オリジナルの契約書については承知しています」誠司さんは鞄からフォルダを取り出し、テーブルの上を滑らせた。「ですが、更新がありました」
拓也が眉をひそめる。「更新?」
「昨年、桐島家の全資産の主要保有者である桐島宗一郎様が、法的権利を行使して婚前契約の条項を修正されました」
誠司さんはフォルダを開き、書類を取り出して拓也の前に置いた。
「この新しい合意書にはこう規定されています。離婚の際、桐島夫人は夫婦共有財産の五十パーセントを保持する、と」
拓也の顔から血の気が引いていく。
「そんな……馬鹿な。俺はサインなんてしていない――」
「君のサインは必要ありません」誠司さんの声は変わらず穏やかだ。「君の結婚、そして雇用の主要な財政保証人であるお父上には、家産に関する条項を変更する権限があります」
「親父がそんなことするはず……」拓也が私を見た。初めて、本当の意味で私を見た。「綾香、これはどういうことだ?」
私は答えなかった。
ただ、彼を見つめた。
自信がひび割れ、パニックが侵食していく様を眺めていた。
そのスーツはよく似合っていた。高価で、きちんとしている。
でも、心の中は変わらない。母を使って私を傷つけ続けた、あの男のままなんだ。
父親の命を救った私に、「手伝ってくれてありがとう」なんてメールを寄越した男のままだ。
「こんなの滅茶苦茶だ」拓也は書類を押し返した。「親父がこんなこと――」
「実際にされたんですよ」誠司さんが別の書類を取り出す。「署名、公証済み、家庭裁判所への届出も完了しています。すべて合法的で、拘束力があります」
白石さんが書類に目を通す。その表情が慎重に無へと帰した。弁護士特有の無表情だ。
「……手続きに不備はないようです」
「不備がないわけないだろう!」拓也が声を荒らげる。「こんなの……綾香、話がしたい。二人だけで」
彼は立ち上がった。かつて私が愛し、信頼していたあの瞳で私を見る。
「頼む」
誠司さんが私を一瞥する。私は小さく頷いた。
彼と白石さんは部屋を出て行った。
静寂。
拓也は座り込み、髪をかきむしった。見慣れた仕草だ。ストレスを感じた時、怯えている時、彼はいつもそうする。
「綾香」声のトーンが落ち、優しくなった。「何をするつもりなんだ?」
「離婚よ。それがあなたの望みでしょう」
「こんな形じゃない」彼はテーブル越しに手を伸ばし、私の手に触れようとして、やめた。「俺たちは愛し合っていたじゃないか。覚えてるだろう?」
覚えている。
五年前、並木通りの小さなイタリアンレストラン。片膝をついた彼。ベルベットの箱に入った指輪。震える手。心からの笑顔。
「葉山綾香、君に出会えたことは僕の人生で最高の出来事だ。結婚してくれませんか」
私は「はい」と答えた。本気だった。
彼も本気だと思っていた。
「どうしてこうなったんだ?」彼の声が震えた。
私は彼を見つめる。私が結婚したこの男。高価なスーツを着た、この見知らぬ他人を。
「あなたは、お義母さんの息子になったのよ」
彼はびくりと身をすくめた。
「それは公平じゃない」
「そうかしら?」私は背もたれに寄りかかった。「いつからあの人にすべてを決めさせるようになったの? 私が着る服も、話す言葉も、私がどうあるべきかも」
「母さんはただ、助けようとして――」
「私を壊そうとしていたのよ。そして、あなたはそれを許した」
「俺はただ、波風を立てないようにしたかっただけだ!」
「私を犠牲にして?」私の声は平坦で、冷静だった。「毎回の夕食、休日、私の仕事や服や手に対するあらゆる小言。あなたはただそこに立って、アレを許していた」
「そんなに気にしているなんて知らなかったんだ――」
「聞こうとしなかっただけでしょう」
沈黙。
彼は自分の手を見つめていた。かつて私の手を握り、安心させてくれたその手を。
「愛してるんだ」彼は静かに言った。「俺が完璧じゃなかったのは分かってる、でも――」
「完璧?」その言葉は苦い味がした。「拓也、二日前の夜、あなたのお父様は死にかけたのよ。私が命を救った。それなのに、あなたからのメールは『手伝ってくれてありがとう』だった。まるで、ソファを動かすのを手伝ったかのような言い草ね」
さすがに恥じ入ったような顔をした。
「動揺してしまって。なんて言えばいいか分からなくて――」
「私が無事かどうか、聞くことはできたはずよ」
「……無事だったのか?」
「いいえ」私は立ち上がった。「でも、あなたには一生分からない。聞こうともしなかったから」
ドアへと歩き、そこで立ち止まり、振り返る。
「私にプロポーズしてくれたあの人、私のことを人生で最高の出来事だと言ってくれた人を、私は愛していたの」
拓也が顔を上げる。その目に希望の光が揺らめいた。
「でも、彼はもういない。私はもう、彼が帰ってくるのを待つのはやめたの」
ドアを開けた。外には誠司さんと白石さんが立っていた。
「すべて折半にします」私は言った。「五十対五十。彼の借金も含めてね」
白石さんが何か言いかけたが、誠司さんが目線だけでそれを制した。
「書類を作成しよう」
私は歩き出した。
振り返らなかった。
エレベーターの中で、誠司さんが横に立った。静かだ。
「大丈夫?」
「そのうち大丈夫になると思う」
ドアが開く。ロビー。ガラス越しに降り注ぐ陽光。
「横領の証拠、いつ突きつけるつもり?」誠司さんが声を潜めて尋ねた。
私は拓也の新しいスーツのことを考えた。入室してきた時の、あの自信に満ちた姿。私が彼の提示するものを何でも受け入れると信じ切っていた様子。
彼がどれほど間違っていたか。
「来週。取締役会で」
「全員の目の前で?」
「ええ、全員に見てもらいたいの」
誠司さんが笑った。それは、決して優しい笑みではなかった。
「いいね」
