第3章 これからは、もうあなたにまとわりつかない
青山美珠が駆け寄り、水原寧々の手を掴んだ。「寧々、大丈夫?」
水原寧々は黙って手を引き、夏目空のジャケットを身に纏い直した。「大丈夫」
水原寧々は一人で学校に戻り、翌日は寮で一日中寝ていた。
夜、食堂に食事を取りに行くと、周りの人々が彼女を指さして囁き合っていた。
青山美珠から電話がかかってきた。おずおずとした声で「寧々、学校の掲示板見た?」
水原寧々は食欲もなく、ご飯をつつきながら尋ねた。「どんな掲示板?」
青山美珠「ううん、なんでもない。ご飯食べたら早めに休んでね、バイバイ」
言い訳がましい態度が逆に怪しかった。
水原寧々は携帯を開き、学校の掲示板にログインした。
トップに掲げられた投稿が目に入った。
#女子大生が薬を使って男に抱かれようとした#
投稿はあの夜の写真で埋め尽くされていた。
藤原南。
なぜここまで追い詰めようとするの。
弁明の機会すら与えてくれない。
水原寧々は両手を強く握りしめ、爪が肉に食い込んだ。
自分の立場を表明する時が来た。
藤原南の誕生日、水原寧々は彼がよく通うクラブに向かった。
専用個室の前で、どう切り出すか迷っていると、夏目空の声が聞こえてきた。
「南、寧々をここまで追い詰めて、もし記憶が戻ったら後悔しないのか?」
水原寧々はドアノブに手をかけたまま、動きを止めた。
「水原寧々がどれだけ下劣で、卑怯な手段を使うか、お前も見ただろう。友たちとして扱いたければ、俺の前で奴の名前を出すな。吐き気がする!」
夏目空は急に声を荒げた。「あの時、区役所で結婚届を出したいと言ったのはお前だろう!事故の瞬間、寧々がお前を庇わなければ、お前は無傷で済んだのか?なのに彼女は二年間も意識不明だった!彼女はお前の妻だ!何年も愛し合った恋人だ!しかも命の恩人だぞ!藤原南、なのにお前は何をした?海市大学の掲示板に裸の写真を載せた!彼女にこれからどう生きろというんだ!考えたことあるのか!」
「夏目空、水原寧々に対する気持ちを知らないと思うの?彼女の味方をしに来たのか?忘れるな、今日は俺の誕生日パーティーだぞ。水原寧々が恥知らずにも薬を使って俺に抱かれようとしたんだ。写真を載せて何が悪い?因果応報だ。命の恩を言うなら、あの時俺が水原家から連れ出さなければ、彼女は今頃どうなっていたと思う?それに、これだけの年月、藤原家が贅沢な暮らしをさせてやったことも、再生の恩義というものだろう」
藤原南の声には温もりのかけらもなかった。彼女のことを、まるで仇敵のように。
そうか、彼女は佐藤桜への恋路の邪魔をしているのだ。
藤原南の目には、彼女は淫らな女であり、悪毒な女だ。
彼の真実の愛を阻む障害物。
かつての藤原南は、水原寧々への愛を隠そうともしなかった。彼女が眉をひそめれば大騒ぎし、愛し守ることに際限がなかった。傷つけることなど、あり得なかった。
そんな藤原南なら、自分自身すら許さなかっただろう。
今の水原寧々は、ついに諦めがついた。
彼女を愛した藤原南は、あの事故で死んでしまったのだ。もう二度と戻ってこない。
個室内で誰かが藤原南に同調した。「私から言わせれば、南さんは間違ってない。悪いのは水原さんです。南さんとの関係は過去のもの。南さんは今、桜さんを本当に愛してる。水原さんがすべきは、南さんを祝福することであって、しつこく付きまとうことじゃない。このまま引きずれば、誰にとってもよくない」
「そうそう、早く離婚した方が、みんなのためよ」
「それにしても、水原寧々がずっと目覚めなければ、どんなによかったか」
水原寧々のドアノブを握る右手の指先が、白くなっていた。
この人たち、かつては彼女と藤原南の愛を見守ってくれた人たち。共通の友人だったはず。
他人にでさえ、ここまでの悪意は向けないはずなのに。
彼女が永遠に目覚めなければ、それが一番よかったと、みんなそう思っているの?
水原寧々は決意を固めたように深く息を吐き、個室に入った。
藤原南は彼女を見上げ、眉間にしわを寄せ、嫌悪感を露骨に表した。
「水原寧々、誰に呼ばれた?」
全員が黙り込んだ。
水原寧々は藤原南をまっすぐ見つめた。「藤原南、教えておくわ。警察に届け出ました。一つは先日のクラブでの薬物事件、もう一つはあなたが私の屈辱的な写真を公開したこと」
その場の全員が、様々な表情を浮かべた。
青山美珠の目には、わずかな動揺が浮かんだ。
彼女は水原寧々に近づき、諭すように言った。「寧々、警察に届けるなんて、あなたにも南さんにも、藤原家にも良くないわ。落ち着いて。それに、藤原家の広報部がもう収めたでしょう?なぜこだわるの?」
水原寧々は彼女を見ることなく、さりげなく手を引き、藤原南を見つめたまま言った。「藤原南、確かに私はあなたを取り戻そうとしました。でも、薬を使ってまであなたに抱かれようとするほど、私は下賤ではない。あなたは簡単に真相を確かめられたはず。なのに、私に濡れ衣を着せることを選んだ」
幼い頃のトラウマで、男女の関係に極度の拒否反応を示す彼女のことを、彼は分かっていたはずなのに。
「今まで諦めなかったのは、いつか私の南が戻って来た時、私たちの愛情に努力が足りなかったと責められるのが怖かったから」水原寧々はそう言いながら、バッグから離婚協議書を取り出し、藤原南の前に置いた。
「今は、私は精一杯頑張った。もう彼は私を責めないでしょう。藤原南、安心して。これからは、もうあなたに縋り付かない」
藤原南は離婚協議書に目を通し、わずかに眉をひそめた。これは彼がマンションに置いておいたものとは違う。
「警察の捜査で私の潔白が証明されるのを待ちます。そしてあなたの公の謝罪も」
水原寧々は藤原南を見つめながら、ペンを取り出し、彼の注視の下、慎重に協議書に「水原寧々」と大きく署名した。
署名を終えて顔を上げた。
「一ヶ月後、区役所の前で会いましょう。婚姻届を忘れずに。離婚手続きを済ませましょう」
彼女は藤原南にグラスを掲げ、涙を堪えながら言った。「藤原南、お誕生日おめでとう!」
最後の誕生日の祝福。
グラスの酒を一気に飲み干し、踵を返して去った。
「寧々!」夏目空が追いかけた。
藤原南は離婚協議書を手に取り、眉をひそめた。


























































