第2章
恵莉奈視点
翌日、私は桜井組が経営するレストランの前に立っていた。都心の一等地に佇むその高級店は、洗練された上品な雰囲気を纏い、ここが反社会的な組織の資金源であることなど微塵も感じさせない。クリスタルのシャンデリアが煌めき、上質な革張りの椅子が並ぶ。糊のきいた純白のテーブルクロス――そのどれもが、完璧な『普通』を装っていた。
「『本当の商売』を見せてやる。覚悟はいいか」
不意に背後から声をかけられた。桜井光代だった。
私は黙って彼の背中に続き、厨房を抜けて目立たないドアの前で足を止めた。彼が壁に埋め込まれたテンキーに暗証番号を打ち込むと、重い金属の扉が音もなく開く。黴と薬品が混じり合った、鼻を突くような独特の匂いが立ち込める狭い階段が、地下深くへと続いていた。
全ての照明が灯された瞬間、私は息を呑んだ。地下室の片側には、拳銃からアサルトライフルまでがずらりと並んだ武器棚。もう片側には、白い粉の入ったビニールの包みが小山のように積まれている。中央の金属製のテーブルには、偽造された会計帳簿と、帯封の施された現金の束が乱雑に散らばっていた。
「これが、あなたの本当の商売……? 麻薬と、銃……?」
私の声は、自分でも分かるほど強張っていた。
「お前が思っているより、この世界は深い闇の中にある」
光代は温度のない声で言った。
「早く慣れることだ」
「少なくとも、このレストランだけはまともだと思っていたのに」
胃の腑がひっくり返るような不快感がこみ上げた。
「レストランも儲かってはいる。だが、こいつが」
彼は地下室全体を顎で示し、
「本当の金のなる木だ。レストランの月の売り上げの、五倍は下らない」
彼は偽の帳簿の付け方、薬物の袋詰め、取引のスケジュール、警察への賄賂といった一連の作業を、手短に、しかし恐ろしいほど正確に説明してみせた。膨大な情報が濁流のように流れ込み、思考が麻痺しそうだった。
「何か質問は」
一通りの説明を終え、彼は冷ややかに尋ねた。
私は唇を噛んだ。
「もし……もし、私がこんなことに関わりたくないと、そう言ったら?」
彼の目が、すっと細められた。
「なら、お前が二度とこの階段を上がることはない」
その言葉に含まれた脅しは、あまりにも明白だった。私は自分の立場を悟った。この闇の世界の掟を受け入れるか、その犠牲者になるか。道は二つに一つなのだ。
―――
二週間後の正午、店は満席だった。私が政界の常連客に挨拶をしていた時、見慣れない数人の男たちが店に入ってくるのが目に入った。非の打ちどころがないスーツの着こなし。だが、その目は油断なく周囲を値踏みしている。襟元のタイピンで、すぐに彼らの正体が知れた。桜井組の最も厄介な敵対組織の一つ、竹田組だ。
『まずい』
私は心の中で悪態をつき、素早く店内を見渡した。今日に限って光代は不在で、警備も手薄だった。
先頭を歩く男が、まっすぐ私の方へ歩み寄ってくる。
「桜井恵莉奈さん、少しお話よろしいかな」
私は完璧な笑みを浮かべ、彼らを奥の個室へと案内した。ドアが閉まった途端、男は下品な本性を現した。
「芝居はよせ、このアマ。地下に何があるか、こっちはお見通しなんだよ。このシマはもう俺たちのモンだ。勝男は死んだ。桜井はとっとと手を引きな」
冷たい汗が背筋を伝うのを感じながら、私は唇の端に笑みを貼り付けた。
「お客様、当店はただのレストランでございます。何かお悩みでしたら、専門のお医者様にご相談なさるのがよろしいかと存じます」
「ほう?」
男は嘲笑し、ジャケットの内側に手を伸ばしてショルダーホルスターをちらつかせた。
「なら、こっちで地下を調べさせてもらっても構わねえよな」
「ええ、どうぞご自由に」
私は微笑み、頭の中で必死に活路を探った。
「ですが、ご案内には支配人の付き添いが必須でして。あいにく、ただ今仕入れで席を外しております」
私はそう言って一度席を外し、厨房に駆け込んで素早く合図を送った。普段は私を侮蔑的な態度で見下している料理長の源一が、即座に危険を察知し、叩き込まれていた緊急時の手順を発動させた。
竹田組の男たちが地下室へ続く階段を駆け下りていく。私の心臓は張り裂けそうだった。しかし、彼らが照明をつけた先にあったのは、ごく普通の倉庫だった。食材の段ボール、ワインの木箱、山と積まれた食器類が整然と並んでいる。
「ここが地下室だと?」
リーダー格の男が、胡散臭そうに眉をひそめた。
「申し上げた通り、ただのレストランでございます」
私は肩をすくめた。
「何を期待なさっていたのですか? 武器庫でも?」
彼らは他の場所も捜索したが、結局、手ぶらで引き上げていった。最後の組員がドアの向こうに消えた時、私は脚の力が抜け、その場にあったバースツールに崩れ落ちた。
源一が、何も言わずにウィスキーのグラスを差し出してきた。
「お見事でした、奥さん。隠し扉のシステムが役に立ちましたな」
その日の夕方、光代が私のオフィスに現れた。
「竹田組の連中が来たそうだな」
「ええ、もう済みました」
私は事の経緯を要約して話した。
彼は黙って聞いていたが、やがて意外なことを口にした。
「今日の件で、お前はこの稼業の全てを救った……案外、お前はこの世界に向いているのかもしれないな」
認めたくはない。けれど、その言葉が、凍てついていたはずの胸の奥に、確かな熱を灯したこともまた事実だった。その日を境に、店のスタッフたちの私に対する態度は変わり始めた。源一の侮蔑さえも、いつしか一種の敬意へと変わっていった。
「銃の構えがなっていない」
地下の射撃場で、光代が厳しく指摘した。
「その構えでは、反動で肩を持っていかれるぞ」
私は九ミリ拳銃を握りしめ、人型の的に狙いを定めようと苦心していた。
「まさか自分が、こんな物騒なものを扱うことになるなんて」
光代が私の背後に回り、その腕が私を包み込むようにして姿勢を正した。硬質な胸板が背中に押し当てられ、彼の吐息が耳朶を掠める。
「足を肩幅に開いて、体重を前に……」
彼の体温に全身が強張る。ふわりと漂うコロンと煙草の匂いに、心臓が大きく脈打った。
「俺たちの世界では、躊躇いは死を意味する」
彼の声が耳元で囁く。
「引き金を引くときは、覚悟を決めろ」
「もし、人殺しにはなりたくないと言ったら?」
私は、か細い声で尋ねた。
引き金にかかった私の指に、彼の指が力強く重ねられた。
「なら、犠牲者になるだけだ。この世には二種類の人間しかいない、恵莉奈。狩る者と、狩られる者だ。お前はどっちになりたい?」
私は深く息を吸い、狙いを定め、引き金を引いた。パンッ! 乾いた銃声が響き、弾丸は的のど真ん中を正確に貫いていた。
光代は片眉を上げた。
「……やはり、お前には才能がある」
それから数週間、私は毎晩、光代の指導のもとで裏社会の生存術を学んだ。昼はレストランを切り盛りし、夜は偽の帳簿の付け方、警察の監視を見抜く方法、そして武器の扱い方を叩き込まれる。私は驚くほどの適性を見せ、すぐに的の中心を安定して撃ち抜けるようになり、資金洗浄のシステムを改善さえしてみせた。
時が経つにつれ、光代の私に対する態度も変わっていった。冷たい監視の目は、いつしか尊敬に似た何かへと変化した。訓練の時間も緊張感が和らぎ、時には酒を酌み交わしながら他愛のない話をして終わることもあった。
特に桜井咲良は光代に懐いていた。彼が屋敷を訪ねてくると、彼女は歓声を上げて駆け寄る。「光代おじさん!」普段は冷徹なその男も、その時ばかりは珍しく優しい笑みを浮かべた。
三ヶ月後、レストランは私の経営のもとで完全に生まれ変わっていた。メニューを一新し、メディアで話題のシェフを引き抜き、芸能人や著名人がお忍びで訪れる店へと変貌を遂げた。裏の稼業も、より組織的かつ安全になった。桜井啓雄は私の仕事ぶりに満足し、一族の重要な会議にも私を同席させるようになった。
すべてが好転し始めた矢先、運命は再び、私を別の方向へと押し流そうとしていた。
―――
ある秋の夕暮れ、啓雄が突然、私と光代を書斎に呼び出した。
「金雲の件、片付けねばならん」
彼は単刀直入に言った。
「あそこのカジノが揉めていてな。腕の立つ者を送り込んで立て直す必要がある」
「期間は」
光代が短く尋ねた。
「少なくとも四年だ」
啓雄は重々しく答えた。
「思ったより根が深い」
胸にぽっかりと穴が空いたような喪失感が押し寄せたが、私は必死で表情を保った。咲良はどうなるの? レストランは? 光代の支えなしで、私はこれらの難題に一人で対処できるのだろうか?
啓雄は私の心を見透かしたようだった。
「恵莉奈、お前は引き続き桜花区の仕事を取り仕切れ。智也がお前を補佐する」
それから光代に向き直り、
「一週間後には発て」
と命じた。
書斎を出て、私たちは夕暮れの庭園を黙って並んで歩いた。茜色の光が、私たちの影を長く、長く伸ばしている。
「四年……」
私はついに沈黙を破った。
「長いですね」
「金雲は好機だ」
光代は低い声で言った。
「組はあそこに、より強い影響力を必要としている」
「もちろんです」
私は頷き、言いようのない寂しさを感じた。
「咲良が、寂しがります」
彼は私を一瞥した。
「咲良だけか?」
私は彼の視線を避け、どう答えていいか分からなかった。
一週間後の別れは、想像以上に辛いものだった。咲良は光代にしがみつき、離れようとしない。
「どうして行っちゃうの?」
彼女はしゃくり上げた。
「大人には、時々やらなきゃいけないことがあるんだ」
光代は屈んで彼女の涙を指で拭った。
「でも、必ず会いに戻ってくると約束する」
「ほんと?」
彼女は小さな小指を差し出した。
「ああ、約束だ」
彼はその指に、自分の指を固く絡めた。
それから彼は私に向き直り、優美なベルベットの箱を手渡した。中には、グリップに私のイニシャルが彫り込まれた、特注の小型拳銃が収められていた。
「組を……そして、お前自身を守れ」
私は彼の目を見つめた。喉の奥が熱く詰まって、言葉にならなかった。
「あなたが戻る頃には、新しい帝国を築いてみせる」
彼は小さく頷き、何かを言いかけたようだったが、結局ただ私の手を一度だけ強く握りしめると、背を向けた。
黒塗りの車が屋敷の門の向こうに消えていく。咲良が、私の手をぎゅっと握った。
「おじさん、帰ってくるよね?」
「ええ」
私は銃の入った箱を胸に抱きしめた。
「約束したもの」







