第3章
恵莉奈視点
四年後
「そいつを、ここに」
『桜井』の最奥にある私のオフィスで、デスクを指で規則正しく叩きながら命じた。鏡の中の女が、冷ややかに私を見つめ返している。プラダのスーツに身を固め、完璧な化粧で武装したその顔は、四年前の私が知る自分とはまるで別人だった。
やがて側近の桜井智也がドアを押し開け、若い従業員が私の前に突き出されてひざまずいた。額には脂汗が滲んでいる。配送ドライバーの一郎。二キロの『商品』を盗み、捕まったのだ。
「どうか、奥様、私には子供が三人……」
彼は震える声で懇願した。
私はデスクの上の報告書を手に取り、温度のない声で言った。
「お前が盗んだのは『商品』だけじゃない、一郎。私の信頼だ。智也は、お前が地下から二キロ持ち出すのを、この目で見ていた」
「もう二度と――」
彼の命乞いを、私は冷たく手を挙げて遮った。
「一度だけチャンスをやる。……だが、代償は小指一本。それがここのルールだ」
智也がぐったりとした一郎を引きずっていくのを見送り、私は静かに息を吐いて窓辺に立った。陽光が桜花区の街並みに降り注ぎ、私が築き上げた『帝国』を照らし出している。四年前、桜井光代がここを去ったとき、この店は小さな麻薬流通ルートを持つ、ただのレストランに過ぎなかった。今や『桜井』はミシュランの星を獲得し、市長も常連の一人だ。そして裏の商いは十倍に拡大した。麻薬、資金洗浄、武器、賭博。私たちはその全てを掌握している。
ポケットで携帯が震え、桜井咲良が通う学校からの着信を告げた。
「ママ!」
十歳になる娘の声が、電話口で弾んでいる。
「今日、学校が終わったら恵子ちゃんの家に行ってもいい? パパが新しいお馬さんを買ったんだって!」
私の口元に、自然と笑みが浮かんだ。
「もちろんよ。智也に迎えに行かせるわ」
「ありがとう! ねぇ、光代おじさんから今月はお手紙来るかな? この前、金雲の夜景の写真を送ってくれるって約束したんだ!」
その名を聞いて、心臓が微かに速まるのを感じた。
「ええ、きっと来るわ。あの人が、あなたとの約束を破ったことなんて一度もなかったでしょう?」
電話を切り、窓の外に広がる自分の帝国に再び目を向ける。咲良は都内屈指の名門私立校に通い、私が彼女のために築き上げたこの裏社会とは完全に隔絶された世界で生きている。彼女が知っているのは、自分の『光代おじさん』が遠い金雲で大きなカジノを経営しているということだけ。裏切り者を容赦なく処刑するその残忍さから、彼が『金雲の屠殺人』と呼ばれていることなど、知る由もない。
―――
午後六時。夕方の喧騒が街を包む頃、私は厨房の中央に立ち、二つの戦場を同時に差配していた。料理長である源一の新作料理と、間近に迫った麻薬取引だ。
「ソースが濃すぎるわ、源さん。白ワインを少し足して」
私は源一にそう指示すると、傍らで待機していた智也に向き直り、声を潜めた。
「埠頭の連中に伝えなさい。値段を一割上げる、と。最近、警視庁の嗅ぎ回る犬が多すぎる。リスクが増したのよ」
「文句が出ますよ、姉貴」
智也が眉をひそめた。
「なら他の売人を探させればいい」
私は不敵に笑った。
「この桜花区で、この純度と量を安定して供給できるのは、私たちだけよ」
「完璧なソースも、完璧な取引も、正確な材料と手順が不可欠なの」
私は源一と智也の両方に言い聞かせる。
「ほんのわずかなミスが、全てを台無しにするわ」
私が厨房を出ようとした、その時だった。ウェイターが慌てた様子で駆け込んできた。
「奥様、警視庁の田中捜査官がお見えです。VIPルームをご希望です」
『……ちっ』
あの男がこのレストランに「訪問」するのは、今月でもう三度目だ。常連客を装ってはいるが、その粘つくような視線は、明らかに私たちを監視している。
「彼の好物、ラムチョップを用意してちょうだい」
私は乱れのない髪を軽く指で整えながら命じた。
「私が直々にもてなすわ」
田中は隅のボックス席に一人で座っていた。四十代半ば。高価だが、着こなしのなっていないスーツが、彼の品性を物語っている。彼は顔を上げ、作り笑いを浮かべた。
「桜井の奥さん、今日のスペシャルは何ですかな?」
「ラムチョップのローズマリーポテト添えでございます」
私は優雅に応え、ウェイターにワインを注ぐよう目配せする。
「お客様のお好みの品でございますわ」
「大したご記憶ですね」
彼は不自然なほど白い歯を見せてにやりと笑う。
「まるで、遠い金雲から届く月一の手紙の内容を、全て覚えていらっしゃるかのように」
私の指先が、一瞬だけ強張った。だが、表情は完璧な笑みのままだった。
『このクソ狐……私たちの通信内容まで掴んでいるというのか』
料理が運ばれてくると、彼は何気ない口調で続けた。
「このラムは見事な焼き加減だ。まるで金雲との連携のように……実に興味深い」
「私はただのレストラン支配人ですわ、田中さん」
私は微笑んだ。
「探偵小説の読みすぎではございませんこと?」
彼は静かに笑ったが、その声には脅迫の響きがあった。
「我々は互いに、あなたがただの『レストラン支配人』ではないと分かっていますよ。桜花区の裏社会では、あなたは『影の女王』と呼ばれている。桜井組の商いはあなたの手腕で大きく花開いた。特に……裏の商いが、ね」
会計を済ませる際、彼はわざと私の耳元で囁いた。
「永遠に隠し通せる秘密などないのですよ、奥様。特に、紙に書かれた秘密はね。組織犯罪処罰法では、共謀罪は実行犯と同等の刑罰が科される。ご存じのはずだ」
彼が去った瞬間、私は警視庁内部の情報提供者に電話をかけた。情報はすぐに入った。警視庁は桜井組に対して組織犯罪処罰法による立件を進めており、特に光代の金雲での活動と、私たちの手紙のやり取りを重要証拠として狙っているという。
『クソッ!』
奴らは、そこまで確信に近い情報を集めていたのか。
―――
その夜遅く、私は寝室の金庫から手紙の束を取り出した。光代が四年間、毎月欠かさず送ってきたものだ。最新の一通は、わずか三日前に届いたばかりだった。
『金雲の灯りは、桜花区の味を思い出させる。……特に、あんたの作るトマトソースと、あんたの瞳の色をな』
彼の力強い筆跡を指でなぞる。紙の上に残されたインクの僅かな凹凸が、彼の存在そのもののように感じられ、胸の奥が微かに熱を帯びた。手紙のほとんどは冷徹なビジネスの指示と家族の近況報告だったが、いつも行間に、火花が散るような個人的な言葉がいくつか隠されていた。
金雲で、彼は二百人近い部下を抱える巨大なカジノ網を築き上げ、街の裏経済の半分を支配していた。かつて地下室で私に銃の撃ち方を教えたあの若者は、今やその名を聞けば敵が震え上がるほどの、冷酷な支配者となっていた。
「あなたは、そこでどんな男になったの……」
私はそう囁き、返事を書くために万年筆を取った。だが、指がためらう。書いては、消す。『毎晩、あなたの帰りを夢見てる……』。結局、私がインクを染み込ませたのは、いつも通りのビジネスの報告と咲良の近況だけだった。
封筒を閉じようとした、その時、電話が鳴った。画面には『花見誠』と表示されている。
「恵莉奈、明日食事でもどうだい?」
彼の声は、いつも通り優雅で心地よかった。
「『雅膳』を予約したんだ」
花見組の上級顧問である花見誠は、最近、私の周りによく姿を現すようになっていた。
「ごめんなさい、誠さん。明日は大事な会議があるの」
私は当たり障りなく断った。
「じゃあ明後日は? オペラのチケットがあるんだ。『カルメン』――君のお気に入りだろう」
私は小さくため息をついた。
「……わかったわ。じゃあ、その時に」
電話を切ると、どっと疲れが押し寄せた。誠は確かに魅力的だった。ハンサムで、教養があり、気前がいい。そして何より、彼がひとつの可能性を象徴していることだった。銃も、麻薬も、殺しの脅迫もない、オペラと美術展と高級レストランだけの、普通の暮らしという可能性を。
だが、私も馬鹿ではない。花見家と桜井家の長年にわたる血で血を洗う抗争を考えれば、誠の突然の接近が偶然でないことは分かっていた。特に、組長である桜井啓雄の健康が衰え、光代が遠く金雲にいる今となっては。
―――
一週間後、誠はレストランのバーエリアで私を待っていた。彼がポケットからベルベットの小箱を取り出すのを見た時、面倒なことになると直感した。
「恵莉奈」
彼は優しく箱を開けた。中には、眩いばかりの光を放つダイヤモンドのネックレスが収められている。
「パリでこれを見た時、すぐに君のことが頭に浮かんだんだ」
「こんな高価な贈り物は受け取れないわ、誠さん」
私はやんわりと断った。
「君のように美しく聡明な女性が、血と硝煙の匂いに塗れていてはいけない」
彼はネックレスをかざした。ダイヤモンドが照明の下で、星のように煌めく。
「僕が君に与えられるのは、宝石以上のものだ。血なまぐささとは無縁の、新しい人生だよ。君はもっと良い暮らしに値する、恵莉奈」
彼の言葉は、心の奥底にしまい込んでいた渇望――普通の暮らしへの憧れ――を揺り起こした。しかし、私は静かに首を横に振った。
「誠さん、お気持ちは嬉しいわ。でも、私には責任があるの」
「せめて考えてみてくれ」
彼はそっと私の手を取った。
「花見家と桜井家が手を結べば、何十年にもわたる不毛な争いを終わらせることができる。咲良ちゃんのことを考えてごらん。あの子を、銃声と血の匂いがする世界で育ててはいけない」
彼の言葉は、私の最大の弱点を的確に抉る刃となって、胸に突き刺さった。
その晩、私は一族の長老会議に出席した。啓雄の健康状態が悪化の一途を辿る中、組は将来の跡目について議論を始めていた。
会議の後、古参の幹部である銀蔵が私を脇に引き寄せた。
「恵莉奈、光代との関係には一線を引け。極道には伝統がある。……義理のきょうだいが一線を越えれば、その先にあるのは死だけだ。お前さんたちの手紙のやり取りを、皆が見ているぞ」
私の心臓が、冷たく沈んだ。
「どういう意味か分かりません、銀蔵さん」
「とぼけるな、嬢ちゃん」
彼の年老いた目は、鷲のように鋭かった。
「わしはこの組に七十年いる。惚れた腫れたの目つきはごまかせん。光代が金雲で十数人殺したのは、商売を脅かされたからじゃねえ。奴らがお前さんを狙ったからだ。組の中には、お前の力を快く思っていない者もいる。奴らは、お前を潰す口実を、血眼になって探しているんだぞ」







