第1章

 龍崎圭が手首を切って心中を図ろうとしたと聞いた時、確かに少し胸が痛んだ。

 だが、その心中の相手が私だなんて自惚れるほど、私は馬鹿じゃない。

 ただひたすらに悲しかったのは、彼のお母様と約束していた残金が支払われないかもしれないということだ。

 残金はあと五千万円もあるのに!

「彼、あんたのために手首を切ったんじゃないの?」

 唯一の親友がそう尋ねてきた。

 私は笑って答える。

「玩具がなくなったからって自殺する持ち主がどこにいるのよ?」

「じゃあ、生きてるってバレたらどうする気?」

 確かに、それは少し心配だった。

 龍崎圭という男は、顔こそ国宝級に整っているが、性格は正真正銘の狂人だ。

 もし私が金のために彼を捨てたと知れば、間違いなくあらゆる手段を使って私を殺しに来るだろう。

 彼は、いかなる裏切りも許さない男なのだ。

 だからこそ、私は死んだことにして逃げたのだから。

「縁起でもないこと言わないでよ。絶対にバレないようにするから!」

 一年後、会社からの辞令で帰国することになった私は、戦々恐々としながら故郷の地を踏んだ。

 帰国歓迎の宴席で、私はワイングラスを片手に愛想を振りまき、必死に会社の顧客開拓に励んでいた。

 数杯の酒を煽り、少し酔いが回ってきた私は、アシスタントに支えてもらって部屋で休もうとした。

 その時、アシスタントが声を潜めて言った。

「夏目さん、さっきから隅にいる人が、ずっとこちらを見ています」

「誰?」

 彼女が示した隅の方へと視線を向ける。

 宴会場の暗がり、影に覆われたソファに一人の男が座っていた。

 彼は漫然と手の中の数珠を弄びながら、漆黒の瞳で、死神のように私を見据えていた。

 血の気が引いた。

 龍崎圭だ。

 彼が手にしている数珠は、私が道端で四百円程度で買った安物だが、当時は手作りだと嘘をついて渡したものだった。

 まさか、まだ捨てていなかったなんて。

 終わった。

 龍崎夫人に金を返せと言われるだろうか?

 私は即座に決断し、踵を返して逃げ出した。

 人のいない廊下に曲がり込んだ瞬間、強烈な力で手首を掴まれた。

 天が回るような感覚の後、私は大理石の壁に激しく押し付けられていた。

 濃厚な血の匂いと、窒息しそうな香水の香りが一瞬にして私を包み込む。

 龍崎圭が私を見下ろしていた。

「夏目羽美」

「死んでなかったのか」

 その声には、今にも懐から銃を取り出しそうなほどの、食いしばった憎悪が滲んでいた。

 まさか、麻袋に詰められて海に沈められるんじゃ……。

 心臓が早鐘を打ち、脳がフル回転する。

「人違いでは……」

「ハッ」

 龍崎圭は低く笑い、熱い吐息を私の首筋に吹きかけた。くすぐったくて身が竦む。

 彼の指先がゆっくりと私の頬を撫で上げる。

「まだ嘘をつく気か? お前が灰になっても俺は見分けられるぞ」

「俺の母親から一億せしめて、海外で優雅な生活を送っていたわけだ?」

 金の話さえ出なければ、まだ友達でいられたかもしれない。

 だが金の話が出た以上、私は死んだふりを貫くしかない。

 言い訳しようと口を開きかけた瞬間、彼の手が私の口と鼻を覆った。

 三十秒後、意識が遠のき、瞼が重く閉じていった。

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