第1章 深夜のライブ配信

午前二時、東京のとあるオフィスビル。広大なフロアの明かりはほとんどが落とされ、その一角でデスクのライトだけが島のよ

うに浮かび上がっていた。その中心にいるのは、システムエンジニアの瀬戸遼太郎ただ一人。

静寂を切り裂くように、キーボードを叩く音だけが甲高く響き渡る。三日徹夜の肉体は鉛のように重く、カフェインで無理やり繋ぎ止めた思考は、とっくに飽和状態だった。乾いた眼球の奥が、ずきりと痛む。

「クソッ、このバグが……!」

瀬戸は呻きながらこめかみを押さえ、無意識に画面右下のデジタル表示に目を落とした。またしても、眠れない夜が更けていく。

機械的な手つきでコードを保存すると、彼はいつもの習慣でライブ配信プラットフォームを開いた。ここ数年、女性配信者の他愛ない声を聞き流すことが、唯一の慰めになっていた。

トップページには、過剰な美顔フィルターと、判で押したような甘ったるい笑顔。そんなサムネイルが画面を埋め尽くしている。

「またこの作り物の顔か……」

瀬戸はうんざりして眉をひそめた。もう、見飽きた。

目的もなくマウスホイールを回していると、ふと、一つのサムネイルが目に留まった。視聴者数『三七』。そんな数字が寂しげに表示された、過疎配信ルーム。

ルーム名は『深夜の独り言』。配信者の名は『雪花』。派手な加工はなく、ただギターを抱えてカメラに背を向けた、少女のシルエットがあるだけだった。

「ずいぶん、寂れてるな」

ほんの少しの好奇心に引かれ、瀬戸はそれをクリックした。

画面が切り替わった瞬間、瀬戸遼太郎の世界から、音が消えた。

画面の中の女性が、アコースティックギターを優しく爪弾いている。華奢な指が弦の上を軽やかに舞う。やがて彼女がふっと顔を上げ、潤んだ瞳でカメラを見つめた――その瞬間、瀬戸の瞳孔が限界まで見開かれ、指先が凍りついたように震え始めた。

「……嘘、だろ……」

その顔、その瞳、その柔らかな微笑み。彼の記憶の底に焼き付いた姿と、寸分違わずに重なった。

六年間、一日たりとも忘れたことなどなかった。高校時代の担任、椎名紗織。二十五歳の若さで母校に赴任してきた、最年少の教師。

優しく、美しく、才能に溢れた彼女は、灰色だった瀬戸の青春時代における、唯一の光だった。

もう一度会いたいと、何度夢に見ただろう。だが、こんな場所での再会など、想像したことすらなかった。

「皆さん、最後まで付き合ってくれてありがとう。人は少ないけど、すごく嬉しいです……」

雪花の、凛としていながらどこか儚い声がスピーカーから流れ出る。六年前、教壇から聞こえたあの声と寸分違わない、優しい響き。

瀬戸の心臓が、大きく一度、跳ねた。

声も、顔も、ギターを抱える姿も。考え事をする時に、つい下唇をきゅっと噛むあの些細な仕草さえ、記憶の中の椎名先生、そのものだった。

「リスナーの皆さん、今夜は最後に『青春』という曲を歌いたいと思います。もう戻れない、美しい日々に捧げます……」

雪花は弦をそっと撫で、透き通るような声で歌い始めた。

「青春の思い出は、決して消えはしない。時がどれだけ、二人を隔てても……」

瀬戸は、呼吸さえ忘れて画面に見入っていた。

その歌は、椎名先生が文化祭の後夜祭で歌ってくれた、あの曲だった。体育館のステージでスポットライトを浴びる彼女を見上げながら、自分も彼女にふさわしい人間になるのだと、固く心に誓ったのだ。

だが、卒業と同時に、二人の糸はぷっつりと切れた。

「椎名……先生……本当に、先生なんですか……?」

呟きと同時に、熱いものが瀬戸の頬を伝った。

感情の濁流が、なけなしの理性を押し流す。何かに憑かれたように、瀬戸は課金ボタンを連打し、震える指でキーボードを叩きつけた。

「うおっ! 二十万!」

「太客キターーー!」

「雪花ちゃん、一発逆転じゃん!」

コメント欄が沸き立つ中、雪花の歌声がぴたりと止んだ。彼女は画面に躍る『¥200,000』の文字を、ただ呆然と見つめている。

「にじゅうまん、えん……」

信じられない、とでも言うように声が震えていた。

「うそ……リスナーさん、このお礼、なんて言ったら……」

雪花は『深夜』というIDを、感激に潤んだ瞳で見つめた。配信を始めて以来、受け取った最高額のスーパーチャットだった。

「どなたかは存じ上げませんけれど、本当に、本当にありがとうございます!」

雪花はカメラに向かって、深々と頭を下げた。

「きっと、すごく特別な方なんですね……」

瀬戸は息を殺して、彼女の次の言葉を待った。

「深夜さん、こんなに気前がいいなんて……」

雪花は悪戯っぽく微笑むと、画面にプライベートチャットの招待を送ってきた。

「もしよろしければ、個人的にお礼をさせていただけませんか?」

瀬戸は、心臓の激しい鼓動を感じながら、震える手でチャット画面を開いた。

『応援ありがとうございます。本当に素敵な方ですね♡』

雪花からのメッセージが届く。

『個人的にお礼がしたいんです。あなたのどんなお願いでも聞きますよ♡』

どんな、お願いでも?

瀬戸の喉が、ごくりと鳴った。

続けざまに、グループチャットへの招待リンクが送られてくる。

『内緒のシェア』――その名前だけで、卑しい想像が頭をよぎる。

『私のVIPグループです。特別なリスナーさんだけご招待してるんです♡』と雪花は説明した。

一瞬の躊躇いの後、瀬戸は『参加』をクリックした。

オンライン中のメンバーは十三人。自分以外に、十数人の男がいるらしい。グループのお知らせには、こう書かれていた。

『雪花の特別なお友達へ。ここは私たちの秘密の花園です♡』

グループに参加するや否や、雪花からダイレクトメッセージが届き、数枚の写真が添付されていた。

白いレースのネグリジェを纏った、艶めかしい自撮り。薄い布地越しに浮かび上がる胸のラインが、瀬戸の全身の血を沸騰させる。こんな椎名先生は、見たことがない。

『深夜さん、あんなにたくさん……。会いたいです、ダメですか?』

『本当に、どんなお願いでも聞きますから♡』

瀬戸は画面の文字を凝視した。理性が警鐘を鳴らす。だが、心の奥底で燃え盛る欲望が、その音を掻き消していく。

六年間、夢に見続けた。もう一度、椎名先生に会うことを。

だが、今の彼女は妖艶で、大胆で、誘惑に満ちている。まるで別人だ。

これは本当に、あの清廉で、教師の規範を誰より守っていた椎名先生なのだろうか。それとも、ただ顔が似ているだけの、赤の他人か。

だが、九十九パーセントの酷似が、心の疼きを否定させてくれない。

午前三時半。空調の低い唸りだけが響く暗闇の中、瀬戸は一人、画面の中の『雪花』と記憶の中の『椎名先生』を繰り返し見比べていた。どの細部もあまりに似すぎていて、もはや別人だとは考えられなかった。

だが、もし本当に先生なら、なぜこんな場所に?

『会いたいです』

渇望が、最後の理性を焼き切った。瀬戸は震える指で、その一言を打ち込んだ。

返信は、ほとんど同時だった。

『明日の夜八時、渋谷駅で。白いワンピースを着て待ってます♡』

「ええ……必ず、行きます」

瀬戸は興奮のままに、そう返信した。

メッセージを送り終えると、彼は椅子の背にぐったりと体重を預けた。心臓が、破裂しそうなほど激しく脈打っていた。

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