第2章 危険なデート

夕方七時半、瀬戸遼太郎はすでに渋谷駅のハチ公前に立っていた。

週末のスクランブル交差点は、まるで人間の奔流だ。押し寄せる人波の中で、彼は落ち着きのない様子で辺りを見回し、じっとりと汗の滲む手のひらをスーツのズボンで何度も拭った。

「落ち着け……落ち着けよ、僕……」

瀬戸は、早鐘を打つ心臓を抑えるように、自身に繰り返し言い聞かせた。もし本当に椎名先生だったら、どうする? 僕に気づいてくれるだろうか?

学生時代の面影を隠すため、わざわざ黒いマスクとサングラスで顔を覆った。だが、そのいでたちはかえって彼を不審人物のように見せ、道行く人々の訝しげな視線を集めていた。

「あの人、こそこそして何やってんだろ?」

母親の手を引いた子供の、無邪気な呟きが耳に刺さる。

瀬戸は顔を真っ赤に染めたが、弁解の言葉など出てこない。聞こえないふりをして俯き、ただひたすらに、あの忘れられない面影を探し続けた。

時間は一分、また一分と過ぎていく。七時五十分、七時五十五分……。

雪花は来ないのではないか。そんな疑念が胸をよぎった、その時だった。雑踏の中からすっと浮かび上がるように、白いワンピースをまとった人影が視界に現れた。

瀬戸の心臓が、大きく跳ねて止まりかけた。

風に揺れる長い髪、華奢な体つき、そして優雅な歩き方――まさしく彼の記憶に刻まれた、椎名先生そのものだった。

「本当に……来た……」

瀬戸は呟き、膝から力が抜けていくのを感じた。

さらに彼を驚かせたのは、雪花が人込みの中からまっすぐにこちらへ歩み寄ってきたことだった。

「あなたが、深夜さんよね?」

雪花の甘く美しい声には、どこか蠱惑的な響きが混じっていた。

瀬戸が言葉を返す間もなく、彼女はすらりとした指を伸ばし、彼のサングラスをこともなげに外した。

二人の視線が、間近で交差する。瀬戸は、完全に思考を停止した。

その顔、その瞳、その優しい笑顔――椎名先生と、九十九パーセント同じだった。

唯一の違いは、目の前の雪花の方がより妖艶で、より……挑発的であること。

「深夜さん、思ったよりイケメンなんだ」

雪花はぱちりと一度瞬きをし、甘えるような声で囁いた。

瀬戸は言葉に詰まった。

「あ、あなたは……その、僕の知ってる人に、すごく似てて……」

「きっと、素敵な人なんでしょうね?」

雪花はくすりと笑いながら、一歩、距離を詰めた。

「でも今夜は、あなたの雪花でいたいな」

彼女の体からふわりと漂う甘い香りが、瀬戸の鼻腔をくすぐる。高校時代、職員室ですれ違うたびに感じた、椎名先生が愛用していた香水と同じ香りだった。

まさか、本当に椎名先生なのか? 瀬戸の心臓が激しく高鳴る。でも、どうしてこんなに……積極的なんだ?

瀬戸がその驚くべき類似性に呆然としていると、雪花はさらに大胆な行動に出た。彼女はごく自然に瀬戸の腕に自分の腕を絡ませ、少し離れた場所でネオンを煌めかせる建物を指差した。

「あそこ、行こ?」

彼女の指が示す先を見て、瀬戸は息を呑んだ。

そこは、紛れもないラブホテルだった。

「い、いいんですか? 僕たち、今日初めて会ったばかりなのに……」

瀬戸の声は上ずっていた。

「昨日の夜、私のために二十万も使ってくれたじゃない。今夜はちゃんと『お礼』しなくちゃ」

雪花は彼の耳元に顔を寄せ、熱い吐息を吹きかける。

「初めてが、一番大事なんでしょ?」

その一言で、瀬戸の心の防波堤は完全に決壊した。

六年間募らせた想い、昨夜の興奮、そして今この瞬間の抗いがたい誘惑――すべての感情が濁流となり、彼を飲み込んでいく。

「……はい」

瀬戸は、ほとんど歯を食いしばるようにしてその言葉を絞り出した。

雪花は満足げに微笑んだ。その笑顔は無邪気でありながらも妖艶で、瀬戸の理性をぐちゃぐちゃにかき乱した。

十分後、二人はホテルの部屋にいた。

豪華なスイートルームの艶めかしい間接照明の下、すべてが夢か幻のように感じられた。

「遼太郎……くん? フロントの記帳、本名だったでしょ?」

雪花は彼の頬を優しく撫でた。

「知ってる? 私、初めて見た時からあなたのこと、すごく特別だって思ったの」

「僕もです……」

瀬戸は彼女の瞳を、吸い込まれるように見つめた。

「あなたは、僕の……夢の女神、みたいだ」

雪花の瞳に、一瞬、奇妙な光がよぎった。

「夢の女神? ……じゃあ今夜は、その夢を現実にしましょうか」

次に起こったことは、すべてが熱に浮かされたような、現実感のない出来事だった。

瀬戸は「女神」との親密な触れ合いに完全に酔いしれ、すべての警戒心を捨て去っていた。

彼は気づかなかった。雪花が情事の最中、巧みに彼の注意を逸らしながら、部屋の隅に置かれた観葉植物の陰に、こっそりと小型カメラを仕掛けていたことには。

「遼太郎くん……思ったより、すごい……」

雪花は彼の耳元で甘く喘いだ。

「雪花さん……夢、見てるみたいだ……」

瀬戸は陶然と応える。

「これは夢なんかじゃないよ……」

雪花の顔は火照り、嬌声が途切れることなく部屋に響き渡った。

「先生……!」

「遼太郎くんは『先生』が好きなんだ? ……ふふ、言ったでしょ、あなたのどんなお願いも聞いてあげるって」

快感に完全に支配された彼は、この「椎名先生」との禁断の愛に、骨の髄まで浸っていた。

翌朝八時、ブラインドの隙間から差し込む朝日が、乱れたベッドを照らしていた。

瀬戸はぼんやりと目を覚まし、無意識に隣に手を伸ばしたが、そこにあるはずの温もりはなかった。

「雪花さん?」

彼ははっと身を起こした。

「雪花さん、どこですか!」

部屋は、がらんとしていた。まるで昨夜の出来事など何もなかったかのように。シーツはしわ一つなく整えられ、長い髪一本すら落ちていない。

ただ、空気中に微かに残る甘い香水の匂いだけが、昨夜が現実だったことを証明していた。

「消えた……?」

瀬戸は慌ててベッドから飛び降りた。

「どうしていきなりいなくなったんだ?」

バスルーム、クローゼット、果てはベッドの下まで。だが、雪花の姿はどこにもなかった。

「まさか……昨夜のは、本当に夢だったのか?」

瀬戸は独りごちた。だが、この残り香は……。

彼は携帯を取り出して雪花にメッセージを送ろうとしたが、どのアプリを開いても返信はない。それどころか、昨夜のチャット履歴まできれいに消え去っていた。

瀬戸はフロントに駆け込んで尋ねたが、返ってきた答えは彼をさらに困惑させるだけだった。

「お客様、八〇八号室の女性のお客様は、確かに先ほどチェックアウトされております」

フロントスタッフは、業務的な笑顔で告げた。

「ですが、お客様の個人情報に関しましては……」

「いつ出たんですか!」

「午前五時頃だったかと記憶しております」

午前五時。瀬戸は衝撃を受けた。自分は泥のように眠っていて、彼女が去ったことに全く気づかなかったのだ。

渋谷の街を歩いても、頭上から照りつける太陽は、瀬戸の心の中の暗雲を少しも晴らしてはくれない。

「どうして急に消えたんだ?」

瀬戸は困惑しながら、昨夜の出来事を一つ一つ思い返した。

あんなに積極的だったのに……まるで、蒸発したみたいじゃないか。

考えれば考えるほど、違和感が募る。雪花のいくつかの行動は、今思えば確かに奇妙だった。なぜ自分からホテルに誘ったのか? なぜ行為の最中、どこか上の空な瞬間があったのか? そしてなぜ、こそこそと消えなければならなかったのか?

「まさか……美人局か?」

恐ろしい考えが、瀬戸の脳裏をよぎった。

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