第1章
命の終わりの数分間、私の魂は天井をすり抜け、VIP特別病室へと辿り着いた。
母、織本雪はベッドの脇に腰掛け、包帯が一重巻かれただけの織本鈴子の足首を、まるで壊れ物でも扱うかのように愛おしげに包み込んでいた。
「鈴子、まだ痛む? 大丈夫よ、ママがついているから。後遺症なんて残させないわ」
父、織本遠矢は苛立ちを露わに病室を行き来している。その表情には凶暴な気配が漂っていた。
「織本杏の奴、図に乗りやがって! 男一人のために実の妹に手をあげるなど言語道断だ! 上がってきたら、あいつの足をへし折ってやらなきゃ気が済まん!」
私は宙に浮かび、その光景を冷ややかな目で見下ろしていた。
お父さん、そんなにいきり立つ必要はないわ。
私はもう死んでいる。あなたが私の足を折る機会は、二度と訪れないのだから。
それでも、理解できない。本当の娘は、私の方なのに。
二十六年間も外で苦労を重ね、ようやく見つけ出された子供は私だったはずだ。涙ながらに「余生をかけて償う」と誓われた血肉も、目に入れても痛くないほど大切にされるはずだった宝物も、私だったはずなのに。
なぜ? どうして全ての信頼も、優しさも、愛も、私の人生を二十六年間も奪っていた織本鈴子に注がれるの?
ノックの音が響き、救急科のベテラン医師が慌てた様子で飛び込んできた。
彼は織本雪の姿を見つけるなり、声を張り上げる。
「織本部長、すぐに下へ来てください! 織本杏さんの容態が急変しました。先ほど一度、心停止して……」
織本鈴子を撫でていた母の手が止まる。その冷ややかな美貌に浮かんだのは、露骨な嫌悪感だった。
「山田先生。あの子にいくら握らされたの? そんな三文芝居に付き合うなんて」
織本雪は絶対的な自信に満ちていた。
「あの子が落ちる瞬間、私は見ていたわ。たかが二階、それも厚い絨毯の上よ。せいぜい軟部組織の挫傷がいいところだわ。鈴子が足を挫いたからって、加害者の分際で死んだふりをして同情を引くつもり? この一年、そんな手口は見飽きているのよ」
安藤池も眉をひそめ、冷淡に口を挟む。
「山田先生、織本杏は偏執的な性格です。僕の気を引くためなら何だってする女だ。騙されないでください」
彼らを見つめる私の心臓は止まっているはずなのに、魂を貫くような激痛が走った。
そうか。彼らの目には、私の命など織本鈴子のつく嘘一つにも劣るのか。
織本雪がスマートフォンを取り出し、私の番号を鳴らす。
看護師長が電話を取り、私の耳元に当ててくれた。そこから聞こえてきたのは、呼ぶ声ではなく、断罪の響きだった。
『織本杏、いつまで死んだふりを続けるつもり? 今すぐ上がってきて鈴子に謝りなさい!』
その鋭い声が、私の中に残っていた「家」への最後の一縷の望みを凍てつかせた。
三十分前、私は突き落とされ、血の海に沈んでいた。必死に織本雪のズボンの裾を掴み、懇願したのだ。
「お母さん、助けて……お腹が、痛い……」
織本雪は私の手を無慈悲に蹴り開け、まるでゴミを見るような目で言った。
「安藤池を奪うために、こんな卑劣な真似まで? 織本杏、あなたには反吐が出るわ。鈴子の検査が済むまで、顔も見たくない!」
安藤池はその場にいながら、倒れている私には目もくれなかった。ただ足を挫いただけの織本鈴子を抱き上げ、まるで今にも壊れそうな至宝でも守るかのように、焦燥しきった様子でエレベーターへと駆け込んでいったのだ。
医療チームを引き連れて去っていく彼らの背後で、冷たい大理石の床の上、私は血を流し尽くした。
彼女は医学の権威でありながら、私に対してだけは、致命傷を見誤ったのだ。
看護師長の泣き混じりの声が響く。
「織本部長……杏さんはもう、持ちそうにありません。瞳孔がすでに……」
『いい加減になさい!』
織本雪が遮る。
『その子に伝えなさい。三分以内に私の目の前に現れなければ、二度とこの家の敷居は跨がせないとね!』
病床で寝たふりをしていた織本鈴子が、ここで「驚いて目を覚ます」演技を始めた。
顔色は蒼白、目尻には涙。彼女はおずおずと織本雪の袖を引く。
「お母さん、お父さん、安藤兄さん……お姉ちゃんを責めないで。全部私が悪いの」
「お姉ちゃんは帰ってきてまだ一年だもの、安藤兄さんと結婚したいと思うのは当然よ。いけないのは、安藤兄さんを好きになっちゃった私……。私がお姉ちゃんから注目を奪ってしまったから……。突き飛ばされたのは、お姉ちゃんの憂さ晴らしだもの。私、気にしてない」
父、織本遠矢は目元を赤くし、スマホに向かって怒号を飛ばした。
「聞いたか! 鈴子はこんな時までお前を庇っているんだぞ! 織本杏、少しは埋め合わせをしてやろうと思っていたが、根っから腐っていやがる! 男のために実の妹を殺そうとするなど、救いようがない!」
私は笑った。
死体になってもなお、織本鈴子は私を逃がさない。被害者という立場を利用して、私を恥辱の柱に釘付けにするつもりだ。
彼らは永遠に知らないだろう。私を階段から突き落とした真犯人が、彼らの腕の中にいる織本鈴子だということを。
そして、私がもう二度と立ち上がり、謝罪することなどできないということも。
