第2章
電話の向こうは死寂に包まれ、やがてプー、プー、という無機質な切断音だけが響いた。看護師長は母の怒声に恐れをなして逃げ出したのか、それとも――私が、完全に事切れたからなのか。
予想通り、電話を切った母・織本雪の顔色は、氷点下まで凍りついていた。
「責任逃れのために、『死』なんて言葉を平気で使うなんて……」
織本雪はスマートフォンをサイドテーブルに乱暴に放り投げた。
「あんな子、引き取るんじゃなかったわ。底辺で染みついた悪習に、口を開けば嘘ばかり。織本家の敷居を跨ぐ資格なんて、最初からなかったのよ」
織本鈴子はベッドの背もたれに体を預け、そっと織本雪の袖口を引いた。
「お母様、そんなに怒らないで。お母様が倒れでもしたら、私、悲しいもの。お姉様……お姉様にもきっと、事情があったのよ。あの時、階段は滑りやすかったし、もしかしたら手が滑って私に当たってしまっただけかもしれないわ。今頃、怒られるのが怖くて隠れているだけよ」
織本雪の表情が一瞬で和らぐ。彼女は織本鈴子の布団を優しく掛け直した。
「鈴子、あなたは優しすぎるのよ。そうやっていつもあの恩知らずを庇うから、あの子もつけ上がるの」
これこそが、織本鈴子の最大の武器だ。彼女はいつも両親の憐憫の情をピンポイントで刺激し、最も無垢な口調で、私に最も悪辣な罪を着せる。
もし今、私の遺体が目の前に運び込まれたとしても、織本雪は迷わず歩み寄って私の頬を張り飛ばすだろう。
「死んだふりをして同情を買うつもりか」と罵り、専門的な医学用語を並べ立てて「偽装が甘い」と侮辱するに違いない。
この一年で、この絶望にはもう慣れっこになってしまった。
「でも……」
織本鈴子は安藤池に視線を向けた。
「安藤兄さん、お姉様のことを悪く言わないであげて。お姉様、兄さんのことがあんなに好きだったじゃない。私たちが結婚するのを見て、ついカッとなってしまっただけだと思うの。何があっても、血の繋がったお姉様なのだから」
織本鈴子の目尻の涙を拭っていた安藤池の手が、ピタリと止まる。
物語のように「部屋に飛び込んでくる」わけではなく、ずっとベッドサイドに付き添っていた彼だが、その身から放たれた怒気は誰よりも鋭利だった。
「姉さん? あいつにそんな資格があるかよ」
安藤池はティッシュを力任せに握りつぶした。
「俺はずっと言ってたはずだ。織本杏みたいな育ちの悪いあばずれは、俺たちの世界の癌だってな。鈴子、あいつが戻ってきてから、君がどれだけ辛い思いをしてきたと思ってる? 今回君を階段から突き落としたってことは、次はナイフを持ち出してもおかしくないんだぞ!」
織本鈴子は首をすくめ、私のために「弁解」を口にする。
「そんな言い方しないで……。お姉様だって、わざと私を傷つけようとしたわけじゃないと信じてるわ! もしかしたら、私が足を踏み外しただけで……」
その言葉に、病室の空気はさらに重苦しくなった。
父・織本遠矢が、バン! とテーブルを叩く。
「わざとじゃない、だと? 防犯カメラは死角だったが、お前が倒れ込んだ方向を見れば一目瞭然だ!」
織本遠矢の怒声が轟く。
「男一人のために実の妹を殺そうとするとは……あいつは人間じゃない、悪魔だ!」
織本鈴子の点滴の滴下速度を確認していた織本雪は、ギリリと奥歯を噛み締めた。
「あの馬鹿娘……! 今回ばかりは絶対に許さない。あの山田とかいう男との茶番が終わったら、私の手で警察に突き出してやるわ。気絶したふりだろうが死んだふりだろうが、きっちりと代償を支払わせてやる」
安藤池の瞳には敵意が渦巻いている。今すぐにでも階下へ駆け下り、「死んだふり」をしている私をストレッチャーから引きずり下ろさんばかりの勢いだ。
その様子を見ていた織本鈴子は、事の運びが早すぎると焦りを覚えたようだ。もし警察が介入して検死でもされれば、自分があの時私を突き飛ばした痕跡が露見してしまうかもしれない。
ゆえに、彼女は慌てて皆を制止した。
「お父様、お母様、お願いだから警察にだけは通報しないで。もしかしたら、私の記憶違いかもしれないし……。それに、何があってもお姉様は、一年前にようやく見つかった本当の娘じゃないの。大ごとになったら、お姉様の将来が台無しになってしまうわ」
安藤池は彼女の額を優しく撫でた。
「鈴子、君は純粋すぎる。織本杏のような陰湿な人間に情けをかければ、自分が舐められるだけだ。世の中には、骨の髄まで腐った人間がいるってことを、君は知らなすぎるんだよ」
その時、医学界の権威である母が、最後の審判を下した。
彼女は織本鈴子の髪を愛おしげに撫でる。
「あなたのような聞き分けの良い娘を持てて、私もお父さんも本当に幸せよ。……分かったわ、鈴子の言う通り、警察への通報は一旦待ちましょう。恩も知らず嘘ばかりつくあの小娘のことは放っておいて、勝手にさせておけばいいわ。今はあなたの回復だけを考えましょう」
四人が寄り添うその光景を見下ろしながら、宙に浮かぶ私は、胸の奥が張り裂けるような激痛を覚えた。
それは肉体の痛みではない。私の心臓は、とっくに止まっているのだから。それは、魂が引き裂かれるような絶望的な寒気だった。
今さらながら、自分がどれほど場違いな存在かを思い知らされる。
たとえ同じ血が流れていたとしても、この家において私は、豪邸に迷い込んだ野良犬に過ぎなかったのだ。
トップ外科医である織本雪は、夢にも思わないだろう。彼女が「卑劣」だと蔑む実の娘が、重度の先天性凝固障害を患っていたことなど。
織本鈴子はただの足首の捻挫で、姫君のように傅かれている。
一方の私は、階段から突き落とされた衝撃で――凝固障害を抱える身にとっては、些細な内出血でさえ致命傷になり得るというのに――深刻な臓器破裂を起こしていたのだ。
この部屋から逃げ出したい。けれど私の魂は、何かの未練に縛り付けられたように、母のそばを離れようとしなかった。
声が出ない。伝えることなどできない。
『お母さん、私はわがままじゃない。嘘なんてついてないよ。私はすぐ階下にいて、体はもう冷たくなっているの』
ただ黙って見つめることしかできない。死者である私に向けられる、残酷な審判と蔑みを浴びながら。
