第3章

 数日後、家族総出の至れり尽くせりな介護のもと、織本鈴子は退院の日を迎えた。

 母、織本雪はトップクラスの外科医でありながら、今はただの心配性の母親になり果てていた。荷造りした薬瓶を一つ一つ、執拗なまでに確認している。父、織本遠矢はとうに入院棟の正面玄関に車を回していた。エンジンはかけたままだ。愛娘に一歩でも余計な距離を歩かせることすら、大罪だとでも思っているのだろう。

 そして私の婚約者である安藤池は、片膝をついて、織本鈴子にフラットシューズを履かせている。その手つきはあまりに優しく、まるで彼女を壊れやすい磁器か何かのように扱っていた。

 帰りの車内、空気は重苦しく、そして張り詰めていた。

 母はカルテをめくりながら、苛立ち紛れに眉間を揉んだ。

「織本杏は、本当にどうしようもない子ね。鈴子がこんなに長く入院していたというのに、一度も顔を見せないなんて。謝罪どころの話じゃないわ。家に帰ったら、あの子にはたっぷりと『教育』をしてあげないと」

 ハンドルを握る父が、バックミラー越しに母を一瞥する。その声は氷のように冷たい。

「俺は最初から言っていたはずだ。あんな奴、連れ戻すべきじゃなかったんだと。野生で育った獣は、骨の髄まで野蛮なんだ。あんなのを家に置いておくなんて、いつ爆発するとも知れない時限爆弾を抱えているようなものだ。遅かれ早かれ、人が死ぬぞ」

『教育をしてあげる』

 その言葉を聞いた瞬間、後部座席の片隅に浮かぶ私の魂の奥底で、ズキリと幻痛が走った。

 封印していた記憶が潮のように押し寄せ、私を飲み込んでいく。死してなお、その光景は骨身に染みるほど鮮明だった。

 ここ一年、母の織本鈴子に対する偏愛は病的な領域に達していた。対して私に向けられる嫌悪は、私がこの家に戻った初日から始まっている。

 本来なら喜ばしいはずの帰還パーティーでのことだ。織本鈴子は熱いお茶を手に私に歩み寄ってきた。『姉を受け入れる』という温情のアピールだったのだろう。だが次の瞬間、彼女は足を滑らせ、煮えたぎる茶を全身に浴びた。

 その瞬間、家族全員の理性が音を立てて砕け散った。

 父は問答無用で、裏拳で私を張り飛ばした。あまりに重い一撃に鼓膜が破れ、頭の中で耳鳴りが響き続けた。

「この疫病神が! 帰ってきた初日に、妹を焼き殺す気か!」

 そして、尊敬を集める『織本先生』であるはずの母は、ただ冷ややかに織本鈴子を抱き起こし、まるで『医療廃棄物』を見るような目で私を見下ろした。

「織本杏。あなたの根性は腐ってるわ。吐き気がする」

 それから――三ヶ月前のことだ。一本の古いネックレスが原因で、私はまた父に酷い折檻を受けた。あの時は丸三日、ベッドから起き上がれなかった。

 そのネックレスに金銭的な価値などない。養母の唯一の遺品であり、私がこの世で最も大切にしている宝物だった。

 織本鈴子の部屋には宝石が溢れ返り、安藤池からの『何気ないプレゼント』さえ限定品だというのに、彼女はあえて私のその一本に目をつけたのだ。

「お姉ちゃん、そのネックレスすごく珍しいわね。ちょっと見せてくれない?」

 彼女が手を伸ばしてくる。

 私は本能的にネックレスを庇った。それだけは譲れなかったからだ。揉み合いになったその時、織本鈴子が突然悲鳴を上げ、その場にへたり込み、手首を押さえて泣き出した。

 聞きつけた母が部屋に飛び込んでくる。織本鈴子の赤くなった手首を目にした瞬間、母の中で何かが切れたようだった。彼女は織本鈴子を慰めながら、私に向かって怒声を浴びせた。

「織本杏! 妹はあなたのせいで散々辛い思いをしてきたのよ! あの子はあなたを肉親として慕っているのに、あなたはあの子を仇敵扱いするの!? この家をどれだけ掻き回せば気が済むのよ!」

「違う、私は、彼女が……」

 弁解しようとした。せめて論理的に説明しようとした。

 だが、織本鈴子がそれを遮った。彼女は顔色を青くし、長い睫毛に涙の粒を光らせながら、弱々しく、しかし健気な声を絞り出した。

「お母さん、怒らないで。お姉ちゃんを責めないであげて。私が悪いの。お姉ちゃんの物に興味を持ったりしたから……私が勝手に転んだだけよ。お姉ちゃんは悪くないの……」

 なんと完璧な被害者のシナリオだろうか。彼女が「お姉ちゃんは悪くない」と言うたびに、私の罪は確定していった。

 帰宅してその惨状を見た父は、二の句も継がずに私を書斎へ引きずっていった。革ベルトが空を切る音が、何もない部屋に虚しく響き渡る。

「お前のような冷酷非道で、嫉妬深い女は、織本家に相応しくない! お前がいるだけで家名の恥だ!」

 私は泣いて懇願した。それは養母の形見なのだと訴えた。けれど私が惨めに泣けば泣くほど、父は私が演技をしていると思い込み、手加減を忘れて暴力を振るった。

 半開きのドアの隙間から、廊下の突き当たりに立つ母と安藤池の姿が見えた。

 彼らは冷ややかな目でこちらを見ていた。そこには一欠片の慈悲もなく、あるのはただ『病巣を切除しなければならない』という決意だけ。まるで私がこの完璧な家庭を侵すウイルスであり、徹底的に破壊しなければ気が済まないといった様子だった。

 その日から、私は沈黙を学んだ。

 織本鈴子が涙を一滴でも流せば、私には終わりのない罵倒か折檻が待っている。

 だから私は、織本鈴子と、ハナから存在しない家族の情を奪い合うのをやめた。真実を説明することも、彼らに歩み寄る希望を持つことも、すべて捨てた。

 透明人間になれば、この家で生きていけると思ったから。

 だが今、すべては終わった。

 車は滑らかに、あの温かな別荘へと向かっている。彼らはまだ、私という『聞き分けのない娘』をどう罰するか相談している最中だ。

 彼らは知らない。

 彼らが『説教が必要だ』と蔑むその相手が、今まさに、病院の冷たい手術台の上にたった一人で横たわっていることを。

 硬直したその体は、もう二度と、一言の弁解も紡ぐことはないのだ。

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