第1章
藤本和美視点
あの秋の午後、長野で、私はスーツケースを傍らに藤本丈史の家の前に立っていた。掌はすでに汗ばんでいる。
『落ち着いて、和美。これはただの仕事、契約よ』
だが、目の前の豪邸を見つめていると、心臓は否応なく高鳴った。杉と檜を贅沢に使った木造の外観が夕日に照らされて深い琥珀色に染まり、格子状の大きな窓ガラスには、遠くの山々の黄金色のシルエットが映り込んでいる。
ここが本当に、私の「家」になるのだろうか。
「和美さん!」
不意にドアが開き、一人の男性が足早に出てきた。初めて藤本丈史を見たとき、私はほとんど呆然としてしまった。いかにも自衛官らしい体格――広い肩、がっしりとした胸板――その歩き方さえも、訓練された揺るぎなさを感じさせる。顔にはいくつかの浅い傷跡があり、その端正な顔立ちに風雨に耐えてきたような風格を加えていた。
「道中は大変でしたか?」彼は優しくそう言うと、屈んで私のスーツケースを受け取った。
「ええ、大丈夫です。素敵なお宅ですね」
「どうも」彼の顔に誇らしげな色がさっとよぎる。「さあ、中へどうぞ。リビングはこちらで、キッチンはオープンコンセプトでして……」
私が片足を敷居に踏み入れた、ちょうどその時。頭上から「カチリ」と小さな音がした。
次の瞬間、氷のように冷たい水が滝のように降り注いだ。
「くそっ!」丈史さんは悪態をつき、とっさに私を腕の中に引き寄せて、水しぶきのほとんどから庇ってくれた。プラスチックのバケツが派手な音を立てて戸口に落下し、あたり一面に水が跳ねる。
私は丈史さんの胸に押し付けられ、彼の強張った筋肉と速い呼吸を感じていた。その一瞬、彼の纏う微かなコロンと、男性的な温かさに、くらりとした。
「大丈夫ですか?」
見上げると、彼の心配そうな眼差しとぶつかった。
「彼女がこの家に住むなんて、同意した覚えはない」
階段の方から冷たい声が響き、この偶然の親密な瞬間をかき消す氷水のように流れてきた。
私は丈史さんから身を離し、振り返った。階段の上には、十代の少年が立っていた。十四歳くらいだろうか。とても繊細な顔立ちに、くしゃくしゃの黒髪。思春期特有のひょろりとした体つきをしている。だが何より私を打ちのめしたのは、その表情だった――完全な無関心、いや、侮蔑の色さえ浮かんでいる。
この子が、藤本拓海。私の、義理の息子。
「藤本拓海!」丈史さんの声が、途端に鋭くなった。「一体何の真似だ?」
少年は肩をすくめたが、表情は冷たいままだった。「歓迎のセレモニーだよ、父さん。特別だったでしょ?」
床の水たまりと、明らかに仕掛けられたバケツの罠を見て、苦い思いがこみ上げてくる。やはり、この家族に溶け込むのは、想像以上に大変そうだ。
「大丈夫です」私は平静を装い、丈史さんに微笑みかけた。「ちょっとした悪戯ですもの」
それから拓海を見上げ、親しみを込めた声を出そうと努めた。「こんにちは、拓海君」
彼は返事をせず、ただ冷たい一瞥を私に投げかけただけでくるりと背を向け、小気味よい足音を残して二階へ上がっていった。
丈史さんは気まずそうに咳払いをした。「すみません、この子は……慣れるのに時間がいるんです」
私は頷いた。『慣れるのに時間が必要なのは、私たちみんなよ』と心の中で思いながら。
夕食時、オープンキッチンの暖かい照明が心地よい雰囲気を醸し出していたが、空気中の緊張はナイフで切り裂けそうなほど濃密だった。
私はキッチンアイランドの周りを忙しく動き回り、腕によりをかけた手料理を食卓に並べた。これが私にできる最も基本的なこと――自分の価値を証明し、この契約が価値あるものだと示すこと。私は比較的無難なメニューを選んだ。鶏もも肉の蜂蜜照り焼き、ガーリックブロッコリー、クリーミーなマッシュポテト、そしてシンプルなサラダ。
オーブンからは美味しそうな香りが漂う。鶏肉の皮は黄金色でパリパリに焼かれ、ブロッコリーは鮮やかな緑色で食欲をそそる。私は一皿一皿丁寧に盛り付け、マッシュポテトにはフォークで模様をつけることさえした。
「すごくいい匂いです」丈史さんが背後から近づいてきた。彼は清潔な黒のTシャツに着替えており、その広い胸板が強調されている。「そんなに手間をかけなくてもよかったのに。うちは普段、かなり適当ですから」
「いいんです、料理は好きなので」私は彼に微笑み返した。「拓海君に何かアレルギーはありませんか?」
「何でも食べますが……ただ、好き嫌いが激しいんです」丈史さんは少し間を置いた。「幸子がパスタを作っていた頃は、いつも喜んで食べていたんですが」
幸子――彼の元妻の名前だと知っていた。二人目だったか、三人目だったか。覚えていないが、彼女もまた、この家族の中では長く続かなかったことだけは確かだ。
「ご飯できたわよ!」私は二階に向かって呼びかけた。
拓海はのそのそと階段を下りてきて、食卓の席についた。彼の視線が料理の上をさっと滑り、それから見下すように鼻を鳴らした。
痛々しいほどの気まずい沈黙の中で、私たちは食事を始めた。
「学校はどう、拓海君?」私は会話の口火を切ろうとした。
彼は顔も上げずに鶏肉を咀嚼した。「別に」
「数学が得意でね、前の学期には県のコンクールで賞を取ったんです」丈史さんがすかさず付け加えた。
「まあ、すごいわね!」私は興味を示すように努めた。「将来、何を勉強したいとか考えてるの?」
拓海はちらりと私を見た。「まだ」
そしてまた、あの恐ろしい沈黙が舞い降りた。食器が皿に当たるカチャカチャという音だけが響く。
「この鶏肉……ちょっとパサついてない?」拓海が不意に口を開いた。静かなダイニングルームに、その声は静かだが鋭く突き刺さった。
私は手を止め、彼を見た。彼は眉をひそめ、無理に我慢しているような顔をしている。
「私はかなり柔らかいと思うけどな」丈史さんが慌てて言った。「和美さんは上手に作ってくれたよ」
「かもね」拓海は肩をすくめた。「でも、母さんのローストチキンはこんなにパサパサじゃなかった。母さんには特別なレシピがあって――いつもすごく柔らかくて、これよりずっと味付けも風味豊かだった」
その言葉は針のように、的確に私の心を貫いた。
頬が熱くなるのを感じたが、平静を保とうと努めた。彼が意図的に喧嘩を売っていること、これが母親を失った子供の怒りと抵抗であることは分かっていた。
「拓海、もういい」丈史さんの声は厳しかった。「和美さんに謝りなさい」
「なんで?」拓海は無邪気に目を丸くした。「本当のことを言っただけだよ。母さんの料理ほど美味しくないのは事実だし。このサラダのドレッシングも、ちょっと酸っぱすぎる。母さんは……」
「もういいと言っただろう!」丈史さんは椅子を激しく鳴らして立ち上がった。「和美さんに対してそんな口をきくんじゃない!彼女はこの食事のために午後ずっと準備してくれたんだぞ!」
「頼んでないよ!」拓海も立ち上がり、声を荒らげた。「彼女を連れてきたのは父さんだろ、僕じゃない!新しいお母さんが欲しいなんて一度も言ってない!」
父と子が対峙し、空気は緊張で張り詰めていた。私は二人の間に座り、自分がこの戦争の導火線であるかのように感じた。
拓海を見ると、その瞳の奥に怒りと痛みが見えた。この子は悪い子ではない、ただ傷ついているだけなのだ。母親を失い、今、見知らぬ女の侵入に直面している。
「大丈夫ですよ、丈史さん」私は静かに言った。「彼はお母さんが恋しいのでしょう。自然なことですよ。私の料理も、まだまだ改善の余地がありますわ」
拓海が私を見た。その目に驚きがよぎる。こんな反応が返ってくるとは思っていなかったかのようだ。
「ごちそうさま」彼は立ち上がると、もう一瞥もくれずにまっすぐ階段に向かった。
丈史さんが彼を止めようとしたが、私はそっと彼の袖を引いて首を横に振った。
階段の向こうに消えていく拓海を見送りながら、私は深呼吸をした。この道は、想像以上に険しいものになりそうだ。
夜も更け、主寝室のブラインドから月光が差し込み、床に銀色の縞模様を作り出していた。
私は布団の端に座って荷物を整理し、一枚の写真を取り出した――元夫との結婚写真だ。写真の中の私は、未来への希望に満ちた目で、満面の笑みを浮かべている。
なんて、世間知らずだったのだろう。
私は写真を引き出しにしまい、数ヶ月前のあの暗い日々へと心を巡らせた。
ギャンブル、借金、裏切り、置き去り。篠原隆が姿を消した後、彼は置き手紙を残していった。「すまない、借金が多すぎる。奴らがお前のところに行くだろう」六年の結婚生活は、一枚のメモで終わった。
債権者たちが代わる代わる私を脅した。私は仕事も、アパートも、ほとんどすべてを失った。絶望の中、私は退役自衛隊員に向ける医療センターでボランティアを始めた。
そこで、藤本丈史に出会った。
初めて彼を見たとき、彼はPTSDを患う若い元自衛官を慰めていた。その忍耐強さと優しさに、私は惹きつけられた。彼は疲れきって風雪に耐えたような顔をしていたが、拓海の話をするとき、その目には優しい光が宿った。
私たちは何時間も話した。彼のトラウマについて、私の絶望について。
「私には拓海の面倒を見てくれる人が必要で、あなたには新しいスタートが必要です」ある日、彼は言った。「もしかしたら、お互いを助け合えるかもしれません」
「契約結婚しましょう。年間1500万円で拓海の面倒を見ます。それ以外の期待も義務もありません」
「これはただのビジネス上の取り決め、ですよね?」私は尋ねた。
「そうです。もう本当の愛なんて望んでいません、和美さん。ただ、拓海に安定した家庭環境を与えたいだけなんです」
その瞬間、私は命綱を見たと同時に、言いようのない悲しみを感じた。二人の傷ついた人間が、生き残るために妥協を重ねている。
最終的に、私は同意した。1500万円のためだけではない。彼の瞳に誠実さと、そして必死さを見たからだ。
今、この見知らぬ部屋に横たわりながら、私は正しい決断をしたのだろうかと思案していた。
隣の丈史さんの部屋から、かすかないびきが聞こえてくる。二階は拓海の部屋。すべてが静まり返っているが、この家庭に潜む緊張感が肌で感じられた。
奇妙な家族、トラウマを抱えた男、反抗的な子供。
これが、私の新しい人生だった。






