第2章

 私をより手厚く介護するため、広根は私を自宅へと連れ戻した。

 その夜、私は一睡もできなかった。

 瞼を閉じるたびに、涙に濡れて目を覚ます。明け方、私は身体を小さく丸め、窓の外が白むまで、ただじっと暗闇を凝視し続けていた。

 翌朝、広根が帰宅したとき、私は寝たふりをした。

 彼は冷気を帯びたコートを脱ぎ捨て、身体が温まるのを待ってから、背後から私を抱きしめた。

 背中に伝わる彼の力強く平穏な鼓動。それを、私はただ皮肉だとしか感じられなかった。

「紗織、見てくれ」

 彼はタブレットを開き、興奮を隠しきれない様子で言った。

 画面に映し出されていたのは、ある企画書だった。

「君の名前を冠した特別慈善基金を設立しようと思うんだ。恵まれない子供たちを支援するためのね」

 彼は愛おしげに私の手を握りしめる。

「こうして徳を積んでいけば、きっと僕たちのもとにも、子供が来てくれるはずだよ」

 憧れに満ちた彼の表情。けれど私は知っている。子供はもう、二度と来ない。

 あの子は一度来てくれたのに、追い払われてしまったのだから。

 彼は長いこと熱弁を振るっていたが、ようやく私が無言であることに気がついた。

 振り返った彼は――凍りついた。

 私の顔は、涙で濡れそぼっていた。

「どうしたんだ?」

 ビジネスの世界では冷徹な決断を下す男が、瞬く間に狼狽している。たかが私の涙ひとつで、彼は震え上がっていた。

 私が一の苦しみを受ければ、十の苦しみを身代わりになって受けたいと願う男。それが、不倫をしながらも私を深く愛している、この夫という生き物なのだ。

 私は涙を拭うと、無理やり笑みを浮かべた。

「ううん、なんでもないの。さっき映画を見ていて……夫が不倫する話だったから」

 彼は安堵の息を漏らし、破顔した。

「なんだ、そんなことか。心配いらないよ。他の誰がどうであれ、僕に限ってそれはない」

 彼は私の頬を両手で包み込む。

「今日は、ずっと側にいるよ」

 私は首を横に振った。

「いいえ、大丈夫。友達が遊びに来ることになってるの。あなたは仕事に行って」

 彼は一瞬躊躇いを見せたが、結局は大人しく従った。

 正午、友人たちが到着した。

「やっぱりね」

 友人の一人が揶揄うように言った。

「広根さんってば本当に模範的な旦那様だわ。あんなに忙しいのに、わざわざ戻ってきて出迎えてくれるなんて」

 広根は微笑んだ。あの、つけ入る隙のない完璧な笑顔で。

 彼は用意していたギフトボックスを、その場にいる女性全員に配って回った。

 歓声が沸き起こる。

「嘘でしょ、これ、入手困難なハイブランドの限定モデルじゃない!」

「広根さん、こんなに散財させてしまって! 私たち、完全に紗織の恩恵にあずかっちゃってるわね」

 彼は車椅子に座る私の肩を抱き寄せ、彼女たちに言った。

「紗織はまだ足の怪我が完治していなくて、外出もままならないからね。僕は最近多忙で家を空けがちだから、君たちが話し相手になってくれて本当に助かってるんだ。これはほんの感謝の気持ちだよ」

 完璧な嘘だ。

 足の怪我は流産を隠蔽するための作り話で、仕事が忙しいというのは愛人と過ごすための口実。

 友人たちは羨望の眼差しを私に向ける。

「紗織、本当に幸せ者ね。こんなに愛されてるなんて」

 私は愛想よく微笑んでみせたが、その笑みが瞳の奥に届くことはなかった。

 笑い声がまだ残響している最中、ドアが開かれた。

 そこに、松島莉娜が立っていた。

 彼女は自信に満ちた足取りで部屋に入ってきた。まるでここが、自分のホームグラウンドであるかのように。

「あら――お部屋、間違えちゃったかしら?」

 彼女はくすりと笑う。

「待って……大学の先輩たちじゃないですか?」

 部屋が、死のような静寂に包まれる。

 莉娜はそんなことなど意に介さない。

 彼女は私の真向かいに腰を下ろすと、広根が配ったばかりのギフトボックスを一瞥した。

「そのブランド、悪くないでしょう?」

 彼女は微笑む。

「でも、先輩方はご存じないかもしれませんね――それ、私のものなんです」

 彼女は私を真っ直ぐに見据えた。

「二年前、私の夫が私の夢を叶えるために、数十億もの大金を投じてこのブランドを立ち上げてくれたの。世界で一番素敵なパートナーだわ」

 彼女の視線は広根を掠め、最後には私へと縫い留められた。

 その笑顔は、あまりにも鋭利だった。

 私は、息をすることさえ忘れていた。

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