第3章
二年前、黒木広根の帰宅頻度が減り始めた。理由は「海外事業の拡大」だという。
だが今、その真実が白日の下に晒された。それは事業拡大などではなく、彼が個人口座から巨額の資金を動かし、愛人の二人の子供のために解約不能な信託基金を設立していたことだった。
その金額は、都内の高級住宅地の半分を買い占められるほどだ。激痛が走り、私は胸を押さえて呼吸を荒げた。
広根は弾かれたように立ち上がる。
「どうした、紗織? 医者を」
だが、松島莉娜の声が冷ややかに割って入った。
「いい加減にしてよ、紗織さん」
彼女はリビングの隅に立ち、侮蔑の色を隠そうともしない。
「あんたは卵も産めない鶏と同じよ。一生子供も作れないくせに、正妻の座に居座って。無駄な抵抗はやめなさい、黒木家の未来はすべて私と子供たちのものなんだから」
――パチン、と乾いた音が響く。
広根は莉娜の頬を張り飛ばした。
「黙れ! 二度と紗織を愚弄すれば、東京から追放するぞ」
莉娜は頬を押さえ、怨嗟の籠もった目で私を一瞥すると、踵を返した。広根はすぐに私の手を握り、心配そうな顔を向ける。
「あんな狂った女の言うことなど聞くな。病院へ行こう」
私は手を引き抜いた。
「大丈夫。手洗いに行ってくるわ」
廊下の死角で、莉娜が立ち塞がった。
「あんな平手打ち、何の意味もないわ」
彼女は声を潜める。
「あんたは妻かもしれないけど、私には双子がいる。見てなさい、子供が病気だと言えば、彼はすぐにあなたを捨てて飛んでくるわ」
リビングに戻ると、案の定、広根は青ざめた顔でスマホを睨んでいた。
通話を切ると、彼は慌ただしく言った。
「会社で急用ができた。処理したらすぐ戻る」
私は彼の袖口を掴んだ。
「今日はどこにも行かずに傍にいてくれるって約束したじゃない。お願い……行かないで」
彼の瞳に罪悪感と迷いがよぎったが、結局私の指を強引に引き剥がした。
「今夜は必ず帰る。約束する」
だが、彼は帰ってこなかった。三十分後、莉娜から動画が送られてきた。
画面の中では、広根が甲斐甲斐しく双子に薬を飲ませている。
莉娜の声が響く。
「広根、子供たちを認知して。いつまでも『隠し子』なんて恥ずかしい思いをさせたくないの。堂々と黒木家の一員として戸籍に入れてあげたいわ」
スプーンを持つ広根の手が止まる。やがて、彼は重々しく頷いた。
「……ああ。手配しよう」
莉娜はカメラを自分に向け、勝ち誇ったように笑った。
「見た? 戸籍という最後の一線すら、彼は譲ったのよ。あんたの負け」
画面を見つめながら、私の心は完全に死んだ。
彼がかつて私に注いでくれた愛情は、今や安っぽく他人に分け与えられている。明日、私はここを発つ。
深夜、帰宅した広根は背後から私を抱きしめた。
「会いたかった。紗織、君がいなくなったら、俺は生きていけない」
私は闇の中で冷笑した。
「本当に?」
「あの基金のことだが――少し変更があってね、また後で話すよ」
彼は誤魔化そうとし、すぐに話題を変えた。
「明日は何がしたい?」
「実家の神社に行って、あなたのために祈祷をしてきたいの」
広根は眉をひそめる。
「足の怪我がまだ治っていないだろう。長時間の運転は無理だ。**運転手を行かせよう」
「いいえ、自分で運転したいの。そうしないと心がこもらないから」
彼は折れた。
「わかった。道中気をつけてな。二日後は結婚記念日だ、遅れずに帰ってこいよ」
翌朝、彼が出かける際、私は封をした手紙を渡した。
「あなたへのサプライズよ。二日後まで開けないって約束して」
中身は莉娜の挑発的な動画と、双子の親子鑑定書。私の訃報を聞いてこれを開けた時、彼は悟るだろう。「君なしでは生きられない」と言った相手を、自分自身の手で殺したのだと。
広根が出発した後、私も車を出した。途中、莉娜からメッセージが届く。
『黒木家の別邸、入籍の儀式よ』
私はハンドルを切り、車窓越しに遠くからその光景を眺めた。
別邸の庭では、親族の長老たちが双子を囲み、使用人たちは莉娜を「奥様」と恭しく呼んでいる。
広根はその傍らで、かつて私だけに向けられていた優しげな微笑みを莉娜に向けていた。
彼の母が感嘆の声を上げる。
「莉娜さんのおかげで、黒木家にも跡取りができたわ」
広根は微笑んで応じた。
「安心してください、母さん。紗織が持っているものは、莉娜もすべて手に入れる――金も、地位もね」
その言葉が、私の最後の未練を粉々に砕いた。
日本中で、私一人だけが道化だったのだ。
私はアクセルを踏み込み、低く呟いた。
「さようなら、黒木広根」
数時間後。
広根が子供の相手をしていると、秘書の中村健司から電話が入った。その声は酷く震えている。
「社長、奥様の車が……GPSの信号が伊豆の崖付近で途絶えました」
「現場にはガードレールを突き破って海に転落した痕跡が。捜索隊によると……生存確率はゼロだと」
広根は凍りついたように立ち尽くし、スマホが手から滑り落ちた。顔色は紙のように白い。
「お前、今……何と言った?」
