第3章

 冬花視点

 一週間。

 私はエスプレッソマシンをぼんやりと見つめていた。シューシューという蒸気の音が、オスカーのいびきを思い出させる。

 「くそっ」

 頭を振って、無理やり仕事に意識を集中させる。あの子のことを考えてはだめだ。絶対に。あれはただの事故。情が移るなんて、あってはならないことだった。

 「冬花、そのラテまだ?」

 カウンターの隣から、香奈に声をかけられる。

 手元を見ると、ミルクを入れ忘れていた。そこにあるのは、苦いだけのエスプレッソが注がれたカップ。

 「ごめん」

 急いで作り直す。

 今日だけで、もう五回目のミスだ。昨日はお客さんのモカに、砂糖と間違えて塩を入れてしまった。

 「ねえ、大丈夫?」香奈が心配そうに私を見る。「最近、なんだかずっと上の空だよ」

 「平気」私は彼女の視線を避ける。「疲れてるだけ」

 「あの犬のこと? 飼い主が見つかったんでしょ?」

 「あの子のことは考えてない」私の声は、自分でもわかるほど棘々しくなった。「私の犬じゃなかったんだから、なんで私が?」

 だけど、自分を騙すことはできなかった。金色のものを見るたびに、オスカーの柔らかい毛を思い出す。犬の鳴き声が聞こえるたびに、無意識に振り返ってしまう。

 帰り道は、わざと公園を避けて遠回りをした。なのに、歩道で金色の犬を見かけたとき、やっぱり足を止めずにはいられなかった。

 オスカーじゃない。でも、その茶色い瞳が、私の胸をひどく痛ませた。

 「犬、お好きなんですの、お嬢さん?」犬を連れた年配の女性が私に気づいた。

 「いいえ」私は素早く首を振ると、その場から走り去った。

 白浜海岸にあるボロアパートに着く頃には、もうくたくただった。十二時間の労働に加えて、内面の葛藤が、私を空っぽにしていた。

 でも、階下に停まっている輝くマセラティを見たとき、私は凍り付いた。

 その車は、こんな寂れた界隈では、ゴミ溜めの中に輝くダイヤモンドのように浮いている。

 そして、その車に寄りかかっている工藤大輔の姿が見えた。

 彼は高価なスーツを着ていたが、ひどく疲れているように見えた。目の下には濃い隈が浮かび、髪も少し乱れている。

 視線が合った瞬間、空気が気まずさで満たされる。私たちの前回の別れ方は、お世辞にも友好的とは言えなかった。

 「冬花さん」彼は体を起こし、咳払いをした。「……話がある」

 私は階段の途中で足を止め、距離を保ったまま言った。「何の話です? もうすべて解決したはずでしょう」

 大輔は居心地悪そうにポケットに手を突っ込んだ。「オスカーのことだ」

 心臓が跳ねたが、冷たい態度を装おうとした。「あの子がどうかしたんですか?」

 「上で……上で話せないか?」大輔はあたりを見回す。「ここは……」

 「ここが何か?」私はわざと意地悪く言った。「あなたには不釣り合いだとでも?」

 「そういう意味じゃない」大輔は苛立たしげにため息をついた。「わかった、ここで話そう」

 彼は車に寄りかかり、さらに疲れた顔になった。「オスカーが、危ないんだ」

 「え?」私は思わず声を上げた。「あの子に何があったんですか?」

 「飯を食わない」大輔の声は低かった。「家に帰ってきた日から、一粒のドッグフードにも口をつけていない」

 胸が締め付けられる。「新しい環境に慣れていないだけじゃ……」

 「違う」大輔は首を振った。「獣医に診せて、隅々まで検査してもらった。体に異常はない」

 彼がこちらを向いたとき、その瞳に今まで見たことのない弱々しさが見えた。

 「毎晩、遠吠えをするんだ、冬花さん。一晩中。その声が……まるで泣いているみたいなんだ」

 私は唇を噛み、込み上げる感情を必死に押し殺した。

 「他の人間にも攻撃的でね」大輔は続けた。「家政婦にも、ボディガードにも、獣医にさえも……近づく者には誰にでも唸り声をあげる。なのに、あんたに似た人を見かけると、必死に駆け寄っていくんだ」

 「大輔さん……」私の声が震える。

 「獣医が言うには、重度の分離不安症らしい」大輔は一歩近づいた。「このままだと、あいつは……」

 「……どうなるんですか?」

 「死ぬ」

 その一言が、雷のように私の心を打った。もう冷静ではいられなかった。涙が堰を切ったように溢れ出す。

 「いや……そんなはず……」私は首を振る。「ただ、慣れるのに時間が必要なだけ……」

 「冬花さん」大輔がさらに近づく。「あいつは、あんたに会いたがってるんだ」

 ついに私は崩れ落ち、顔を覆ってうずくまり、嗚咽を漏らし始めた。この一週間、必死に押し殺してきた痛みと恋しさが、すべて一気に噴き出してきた。

 「私もあの子に会いたい」私は泣きじゃくった。「毎日、狂いそうなくらい。でも、あの子は私のじゃない。私には……」

 大輔は私が泣くのをしばらく静かに見ていたが、やがて口を開いた。「提案がある」

 涙でぼやけた目で、彼を見上げた。

 「月百万円」大輔の声は真剣だった。「俺の青川の家に住んで、オスカーの世話だけをしてくれ」

 私は呆然とした。「何ですって?」

 「聞こえただろう」大輔はスーツのジャケットから封筒を取り出した。「月百万円、住居と食事も提供する。君の仕事はただオスカーのそばにいて、あいつが元気になるのを助けることだけだ」

 私は封筒を睨みつけ、頭が完全に混乱していた。「百万円? 正気ですか? 私はただのカフェの店員ですよ!」

 「オスカーにとって、あんたはどんな専門家よりも重要なんだ」大輔の表情は真摯だった。「あいつには君が必要なんだ、冬花さん」

 「馬鹿げてる……」私は立ち上がった。「私にそんな大金の価値があるわけないでしょう?」

 「あんたが、あいつを救える唯一の人間だからだ」大輔は一歩前に出た。「あいつが死ぬのを見たいわけじゃないだろう?」

 その言葉は、私の腹の底に突き刺さった。オスカーの信頼に満ちた瞳を思い浮かべ、彼女が食事を拒んでいる姿を想像すると、心が引き裂かれるようだった。

 でも……。

 「できません」私は一歩後ずさった。「こう見ても、私はまだ少女だよ。知らない男の家に住むなんて」

 「これはただの仕事だ!」大輔は必死に強調した。「純粋な雇用関係だ! あんたがオスカーの面倒を見て、俺が給料を払う。それだけだ!」

 唇を噛みしめ、考える。月百万円……カフェでの年収よりもはるかに多い」。家賃も払えるし、父の借金だって返せるかもしれない。

 私の躊躇を見て、大輔の声はさらに懇願するような響きを帯びた。「冬花さん、頼む。助けてくれ。俺は本当に、オスカーを失うわけにはいかないんだ」

 彼の瞳に浮かぶ絶望はあまりに真に迫っていて、息が詰まりそうだった。

 「私……」声が喉に詰まった。「これは一時的なものですよね? あの子が元気になったら、すぐにここを出ます」

 大輔は安堵したように頷いた。「もちろんだ! いつでも好きな時に出て行っていい。引き止めたりはしない」

 私は目を閉じ、深呼吸をした。

 「わかりました」目を開けると、大輔の瞳に光が宿るのが見えた。「同意します」

 翌日、大輔は控えめな黒いメルセデスで私を迎えに来た。私の全財産がボロボロのスーツケース一つに収まっているのを見て、彼の表情に何かがよぎったが、何も言わなかった。

 「手伝うよ」彼はスーツケースに手を伸ばした。

 「ありがとう」

 車内は静かだった。私は大輔を盗み見た。今日の彼は昨日より顔色は良かったが、指は神経質にハンドルを叩いている。

 「オスカーは……今どうしてる?」私は尋ねずにはいられなかった。

 大輔の指が止まった。「昨夜は遠吠えしなかった。君が来ると話したからかもしれない」

 「あの子に話しかけるんですか?」

 「もちろんだ」大輔は私を一瞥した。「あいつは理解する」

 私の心は少しだけ温かくなった。

 青川の別荘に着いたとき、私は度肝を抜かれた。崖の上に建つ現代的な邸宅で、大きな全面窓が海を望んでいる。

 「なんてこと……」

 「オスカー、車の音に気づいたはずだ」大輔がそう言った途端、聞き覚えのある必死な鳴き声が聞こえてきた。

 そして、彼女の姿が見えた。オスカーが家から飛び出してきて、私に向かってまっすぐに突進してきた。

 「オスカー!」私は両腕を広げてしゃがみこんだ。

 彼女は私に激突し、狂ったように私の顔を舐め回し、尻尾はちぎれんばかりに振られている。体重がかなり落ち、毛並みもくすんでいるのがわかった。

 「ああ、なんて痩せちゃって」私は胸を痛めながら彼女を強く抱きしめた。「ごめんね、来るのが遅くなって」

 オスカーはクンクンと鳴いた。まるで、『やっと来てくれた。もうどこにも行かないよね?』と言っているかのようだった。

 大輔は、複雑な表情で私たちの様子を立って見ていた。

 「もう元気になったみたいだな」彼は静かに言った。

 オスカーは大輔を一瞥すると、所有権を主張するように再び私の腕の中に鼻をうずめた。

 「こっちだ」大輔は私のスーツケースを拾い上げた。「部屋を案内する」

 彼についてこの豪邸に入りながら、私は自分の人生がいかに劇的に変わってしまったかを、ふと実感した。

 一週間前は家賃の心配をしていたのに。今や私は、数億円の家に引っ越そうとしている。

 これはオスカーのためだ、と私は自分に言い聞かせた。オスカーのためだけに。

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