第3章
「松本さん」
平床夫人は箸を置くと、それまでの温かみを消した声で言った。
「単刀直入にお話しさせてちょうだい」
私は手にしていた湯呑みを置き、彼女の次の言葉を待った。
「勝人は私たちの一人息子であり、平床グループの未来を担う後継者です。あの子の目はもう完治しました。つまり、人生設計を根本から見直す時期に来ているのです」
彼女は一呼吸置いた。
「あなたが心優しいお嬢さんだということは否定しません。ですが、家業を継ぐ息子が障害を持つ方と結婚するわけにはいきませんわ。平床家の対面にも、未来にも関わることですから」
「奥様、おっしゃることは理解しております」
私は努めて平静な声を装った。
平床夫人はふっと笑みをこぼした。
「話が早くて助かるわ。若い人はとかく感情に流されがちですからね。勝人も社交界に復帰して、優秀なお嬢さんたちと知り合う機会が増えました。あなたには……そうね、うちの方で良い就職先を斡旋しましょう。一生生活には困らないだけの待遇は約束するわ」
その言葉の一つひとつが、鋭利な針となって私の心臓を突き刺した。
「お手洗いを借りてもよろしいでしょうか」
私は席を立った。少しだけ、気持ちを整理する時間が必要だった。
平床夫人に教えられた方へ廊下を進む。
用を済ませて戻ろうとした時、勝人と父親の話し声が耳に届いてしまった。
「お前自身はどう考えているんだ」
平床氏の声は低く、厳格な響きを帯びていた。
「ただ、今すぐ別れるというのは残酷すぎる気がして……」
勝人の答えに、私の心は瞬時に凍りついた。
「彼女は僕が一番辛かった時期に支えてくれたんだ。借りがある」
「それは未来の当主が考慮すべきことではない。平床グループに必要なのはふさわしい女主人だ。お前が一生介護しなければならない『お荷物』ではない」
勝人は反論しなかった。
私はその場に立ち尽くし、胸をえぐられるような痛みに耐えた。
彼の沈黙こそが、何より雄弁な答えだった。
チャリティーオークションの後、心の奥底にわずかに残っていた迷いも、この瞬間、完全に消え失せた。
私は深く息を吸い込むと、何事もなかったような顔を作ってダイニングへ戻った。程なくして勝人も戻ってきたが、私と目が合うと、その表情に不自然な翳りが走った。
私は平床夫人に、自分の決断を告げた。
勝人さんと別れます、と。
ただ、私の誕生日までは待ってほしい、と付け加えて。
せめて。せめて、私たちのこの恋に、体裁のいい幕引きを用意させてほしかったのだ。
平床夫人は了承した。
自分の小さなアパートに戻り、私はサングラスを外して鏡の中の自分を見つめた。
愛のために嘘を紡いだ女は、今、その嘘に食い殺されようとしている。
嘘の上に築かれたこの関係は、最初から破綻する運命だったのではないか——そんな疑念が頭をもたげる。
物思いに沈んでいたその時、不意にチャイムが鳴った。ドアスコープを覗くと、封筒を手にした見知らぬ男が立っている。
「松本真菜さんでいらっしゃいますか?」
男は礼儀正しく問いかけてきた。
「はい、そうですが。何かご用でしょうか」
「ある調査を依頼されておりまして」
男の瞳には、プロ特有の冷徹な品定めをするような光が宿っていた。
「あなたの、本当の正体についてです」
心臓が大きく跳ねた。
なぜ、私の正体を?
