第1章

 スマートフォンの画面に表示された数字の羅列を睨みつけ、深く息を吸い込む。

 負債総額、三千二百万円。

 三ヶ月前に賭けたテック株が暴落し、それにつられてすべての投資案件が連鎖的に崩壊した。債権者からの督促の電話やメールが次々と届き、私の携帯は一日中鳴り止まない。

「白石さん、今月のお支払いが十五日遅れております……」

 電源を切り、六畳一間のアパートの薄い壁に背を預ける。二十八歳、ウォートン・スクールMBA保持者。かつては投資界の麒麟児ともてはやされたが、今や家賃の支払いさえ危うい。

 その時、目の前を刺すような青い閃光が走った。

『適合ホストを検知』

『復縁チャレンジシステム、起動中……』

『リンク完了!』

 私は弾かれたように体を起こした。半透明のバーチャルパネルが空中に浮かび、無数の文字がスクロールしている。

「なっ……」

『親愛なるホスト様、【復縁チャレンジシステム】の獲得おめでとうございます』

『【任務概要】指定されたシナリオ世界へ転移し、主人公・高嶺翔太の高嶺の花である【白石美雪】を演じていただきます』

『【達成目標】原作の展開に従い、最終的に主人公の好感度を100%にすること』

『【報酬】三百億円。現実世界への持ち込みが可能』

 呼吸が止まった。

 三百億円だと?

「待て」私はその一文を凝視した。「『原作の展開に従い』とはどういう意味だ?」

 システムパネルが切り替わり、あらすじが表示される。

『【世界観】現代東京のビジネス界。丸の内金融街が主要舞台』

『【人物相関】貴方は白石商事の令嬢であり、高嶺翔太の婚約者。五年前、貴方が渡米留学を選んだため、高嶺翔太は貴方を想うあまり、容姿の似た佐々木小春を身代わりとして……』

 私はあらすじを斜め読みし、眉間の皺を深くした。

 これは典型的な『元妻奪還物語』だ。主人公の財閥御曹司・高嶺翔太は、高嶺の花である私が海外へ行った腹いせに、身代わりの女を虐げる。雨の中の土下座、大勢の人の前での侮辱、モラハラ……ありとあらゆる陳腐な展開のオンパレードだ。

 そして高嶺の花が帰国すると、主人公は執着の対象を身代わりへの罪悪感へと変え、狂ったように彼女を追いかけ始め、今度は逆に高嶺の花である私を虐げるようになる。

『【システムヒント】ホストは原作通りに行動し、主人公からの虐待と折檻を受け入れ、好感度が100%に達すれば報酬を獲得できます』

「虐待だと?」私は鼻で笑った。「ウォートンで五年間学んだのは、サンドバッグになるためじゃない」

『【警告】シナリオからの著しい逸脱は任務失敗とみなされます』

『転送まであと十秒。ホスト様、ご準備を』

 その言葉が終わらぬうちに、視界がブラックアウトした。

 次に目を開けた時、私は羽田空港の国際線到着ロビーに立っていた。

 身に纏うのはシャネルのスーツ、手にはエルメスの限定バッグ、足元は十センチのピンヒールだ。周囲の人々が羨望の眼差しを向ける中、カメラを構えた記者たちが数人、群がってきた。

「白石様!今回のご帰国は高嶺様との復縁のためですか?」

「五年間、高嶺様はずっと待っていたと言われていますが、何かコメントは?」

 私は無表情でマイクを押し退け、出口へと早足で向かう。

 視界の端でシステムパネルが明滅している。

『【現在の身分】白石美雪、二十八歳、白石商事海外部門責任者』

『【現在時点】原作において、ニューヨークから帰国した直後』

『【現在任務】高嶺家の代官山の別荘へ向かい、シナリオ通り主人公と対面する』

 出口では、黒いスーツを着た若い男がプレートを掲げて待っていた。高嶺翔太ではない。秘書の中村だ。

「白石様、お疲れ様でございます。高嶺様のご指示で、お迎えに参りました」中村は礼儀正しくスーツケースを受け取ったが、その瞳には複雑な色が宿っていた。

「高嶺さんは?」私は問う。

「高嶺様は……会社で緊急の案件を処理されております」

 心の中で冷笑する。原作のこのシーンはよく覚えている——主人公は会社になどいない。自宅で身代わりの女と喧嘩している最中だ。

 わざと迎えに来ないことで、高嶺の花にマウントを取り、「お前はもう唯一無二の存在ではない」と思い知らせようとしているのだ。

「そうですか」

 車は東京で最も繁華な中央区へと滑り込む。窓外に林立する摩天楼を眺めながら、私の脳は高速で回転していた。

 三百億円の魅力は確かに大きい。だが、シナリオ通りにサンドバッグになる?あり得ない。

 別のルートを見つけなければ。

 車は代官山にある千坪の敷地を持つ豪邸の前で停止した。高嶺家の私邸だ。前庭の日本庭園だけで数億円の価値がある。

 車を降りた瞬間、激しい怒声が聞こえてきた。

「高嶺様!いつまで私を苦しめるつもりですか!」

 悲痛で絶望的な女の声だ。

「苦しめる?」男の声は骨まで凍るほど冷たい。「佐々木小春、お前が勝手に私の側にいたいと言ったんだ。愛してるなんて、一度も言ってない」

「でも、優しくしてくれるって!言うことを聞けば——」

「——パァン!」

 乾いた平手打ちの音。

 指先に力が入り、爪が掌に食い込む。

 あれが佐々木小春、私の「身代わり」か。

 そしてあの男が、この世界の主人公——高嶺翔太。

 中村が気まずそうに咳払いをした。「白石様、少々お待ちいただけますか?車の中で——」

 私はドアを押し開け、ヒールを鳴らして門へと直進する。

「いいえ」

 この目で確かめてやる。このいわゆる『元妻奪還物語』の主人公が、どれほどのクズなのかを。

 そして、虐げられているあの身代わりが……あるいは、私がシナリオを書き換える鍵になるかもしれない。

 システムパネルが狂ったように点滅する。

『警告!ホストはシナリオから著しく逸脱しようとしています!』

『【原作ルート】門の外で待機し、口論を聞いて不憫に思い立ち去る。三日後に主人公と正式に対面』

 私は警告を無視し、インターホンを押した。

 中の怒号がピタリと止む。

 数秒後、ドアが開いた。

 長身の男がそこに立っている。彫りの深い顔立ち、仕立ての良いアルマーニのスーツ、全身から放たれる支配者としてのオーラ。彼は私を見た瞬間、驚愕に目を見開いたが、即座に冷淡な表情へと戻った。

「お帰りなさい」

 高嶺翔太の声には何の抑揚もなく、まるで私を見知らぬ来客のように扱う。

 私は彼の肩越しにリビングへ視線をやった。

 頬を赤く腫らした少女がソファの隅で縮こまっている。乱れた髪が顔の半分を覆っているが、上げられたその瞳は私と瓜二つだ——これがシステムが用意した「よく似た身代わり」か。

 だが今、その瞳には絶望しか映っていない。

 私は視線を戻して高嶺翔太を見据え、口元に氷のような冷笑を浮かべた。

「ただいま」

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