第2章
高嶺翔太は道を譲らなかった。
彼は扉の前に立ちはだかり、冷ややかな視線を私の顔に走らせる。まるで、場違いな物品でも値踏みするかのように。
「何しに戻ってきた?」
私は言葉を失った。
五年ぶりの再会で、最初にかける言葉がそれ?
視界の端で、システムパネルが激しく明滅する。
『警告! シナリオから深刻な逸脱が発生!』
『【原シナリオ】主人公は高嶺の花に対し情熱的な愛を語り、「五年もの間、君を待っていた」と告げる』
『【現在の好感度】-10』
マイナス十?
私は深く息を吸い込み、胸の内で渦巻く動揺を押し殺すと、令嬢として相応しい微笑みを浮かべた。
「翔太、私たちは幼い頃からの婚約者よ。帰国するのは当然でしょう?」
「当然、だと?」
彼は鼻で笑い、ようやく身体をずらして私を中へ入れた。
「ニューヨークで優雅に暮らしていたんだろう。白石商事の海外事業も順調そのもの。なぜ今さら、俺たちの生活をかき乱しに来た?」
俺たち?
私はハイヒールを鳴らしてリビングへと進み、ソファに座る佐々木小春に視線を落とした。
彼女は素早くうつむき、長い髪で赤く腫れた頬を隠す。私とよく似たその瞳を、複雑な感情がよぎったのが見えた——嫉妬でも、怨恨でもない。あれは……同情?
「小春、二階へ行け」
高嶺翔太の口調は、反論を許さないものだった。
佐々木小春は怯えた小動物のように慌てて立ち上がり、スリッパも履かずにふらつく足取りで階段を駆け上がっていく。
バンッ——
二階でドアの閉まる音が響いた。
私は高嶺翔太に向き直り、白石家の令嬢としてのプライドを保ちながら問いかける。
「翔太、これはどういうつもり? たった五年離れていただけで、あなたは——」
「五年は十分すぎる時間だ」
彼は私の言葉を遮り、バーカウンターへ歩み寄ってウイスキーをグラスに注いだ。
「家柄の釣り合いだとか、幼馴染だとか、そんなものは所詮、両家の政略結婚に過ぎないと理解するにはな」
「彼女を愛しているの?」
私は二階を指差した。
「愛?」
彼は軽蔑したように笑った。
「美雪、いつからそんなにお花畑な頭になったんだ? 小春はただの……都合のいい相手だ」
爪が掌に食い込む。
この男、本来のシナリオでは高嶺の花を忘れられず、身代わりのヒロインを散々虐げた挙句、最後には死ぬほど後悔することになっているはずなのに。
だが現在は、高嶺の花である私には冷酷極まりなく、身代わりの彼女さえ道具扱いしている。
システムは一体、私をどんないかさま世界に放り込んだのよ?
「今夜、六本木で歓迎会がある」
高嶺翔太はグラスを置いた。
「神谷たちが会いたがっているんだ。覚えているだろう、俺たちの界隈を」
もちろん覚えている。
システムが私に植え付けた記憶によれば、神谷金融の御曹司である神谷遼介と、藤原不動産の跡取りである藤原慎一郎。二人とも、高嶺翔太とは幼い頃からの悪友だ。
「時間は?」
「夜八時、六本木の『銀座・華』だ」
彼は一瞬言葉を切り、続けた。
「小春も連れていく」
「なんだって?」
「佐々木小春も連れていくと言ったんだ」
彼の瞳は氷のように冷たい。
「君が戻ってきた以上、俺たちの関係を周囲に知らしめるべきだろう。君は白石家の令嬢、彼女は俺の連れ。それぞれの分をわきまえるには丁度いい」
私は彼を見つめ返し、急にすべてを理解した。
この男は、大勢の人の前で私を辱めようとしているのだ。
かつて手の届かない場所にいた高嶺の花が、今やただの身代わり以下に落ちぶれた姿を見せつけるために。
「いいわ」
私は口角を上げ、笑ってみせた。
「楽しみにしてる」
夜七時半。私はディオールの黒いイブニングドレスに身を包み、サンローランのピンヒールを履いて鏡の前に立っていた。
システムパネルがポップアップする。
『【現在の任務】六本木の宴会に参加する』
『【警告】原シナリオでは、高嶺の花は参加を拒否し、自宅で涙を流す展開です』
『この選択はシナリオの完全な崩壊を招きます』
私はパネルを消した。
崩壊上等。
どうせ原シナリオ通りに進んだところで、虐げられて死ぬような目に遭うだけだ。好感度だってマイナスなんだから。
なら、一か八か賭けてみる。
階下から足音が聞こえ、サイズの合わないピンクのワンピースを着た佐々木小春が降りてきた。明らかに高嶺翔太が適当に買い与えたものだ。サイズが一回り大きく、胸元がだらしなく浮いている。
彼女は私を見ると、反射的に一歩後ずさった。
「白石さん、私……行かなくてもいいんです」
彼女の声は細い。
「もし白石さんが、私の存在を不快に思うなら——」
「どうして不快だと思うの?」
私は彼女の言葉を遮り、目の前まで歩み寄った。
至近距離で見ると、私たちの容姿は確かによく似ている。同じ卵型の輪郭、同じアーモンド形の目、身長さえもほぼ同じ。
けれど、彼女の瞳の色は私とは全く異なっていた。
そこに見えるのは、抑圧された怒り、不条理への嘆き、そして……計算?
「行きたくないの?」
私が問うと、彼女は唇を噛み締め、首を横に振った。
「なら、一緒に行きましょう」
私は踵を返し、玄関へと向かう。
「彼が私を辱めたいというなら、私も見てみたいわ。そのご自慢の財閥二世たちが、どんなクズ共なのかをね」
車は六本木で最も華やかな通りに止まった。
『銀座・華』は一晩の貸切で数百万円は下らないと言われる最高級料亭だ。店の前にはポルシェ、フェラーリ、ロールスロイスといった高級車がずらりと並んでいる。どれも一台数千万はする代物だ。
高嶺翔太はすでに門の前で待っており、その傍らには二人の男がいた。
一人はトム・フォードのスーツを着こなし、油で固めた髪に葉巻をくわえている——神谷遼介だ。
もう一人は金縁の眼鏡をかけ、スリーピースのスーツを上品に着こなしている——藤原慎一郎。
「よお、これが噂の高嶺の花か?」
神谷遼介は紫煙を吐き出し、私を値踏みするように上から下まで眺めた。
「五年見ないうちに、美雪もずいぶんと……高飛車になったもんじゃないか」
「神谷君、お久しぶりね」
私は微笑みを崩さずに返す。
「確かに久しぶりだ」
藤原慎一郎が眼鏡の位置を直した。
「だが美雪、今回の帰国は翔太を困らせているようだね」
「困らせている?」
「ああ」
彼は意味ありげな視線を佐々木小春に向けた。
「小春ちゃんは三年間も翔太に尽くしてきたんだ。君が突然戻ってきて、彼女はどうなる?」
私が口を開く間もなく、高嶺翔太が佐々木小春の腰を抱き寄せた。
「行くぞ。みんな待っている」
個室にはすでに七、八人の男女が座っていた。いずれも東京の上流階級に属する若者たちだ。私が入室すると、彼らの視線が一斉に奇妙な色を帯びる。
「白石さんが帰国したって?」
「残念だねえ、翔太にはもう小春ちゃんがいるのに」
一つ一つの言葉が、針のように突き刺さる。
私はシャンパングラスを手に取り、優雅に一口含んで顔色一つ変えずにやり過ごした。
佐々木小春は高嶺翔太の隣に座らされ、私は最も離れた末席に案内された。
これが歓迎会?
ただの公開処刑じゃない。
「美雪、ウォートン・スクールでMBAを取ったんだって?」
神谷遼介が唐突に口を開いた。
「なら聞くが、高嶺グループが最近手がけている東京湾開発プロジェクト、どう思う?」
彼は意地の悪い笑みを浮かべる。
「俺たち神谷金融も五十億ほど出資してるんだがね」
私はグラスを持つ手を止めた。
システムパネルが一行のテキストを弾き出す。
『【東京湾開発プロジェクト】高嶺グループと神谷金融、藤原不動産が共同投資する大型不動産案件。総投資額三百億円』
『【隠し情報】当該プロジェクト用地には深刻な地質的問題が存在する。地盤沈下により二年以内の全面工事停止が予測される』
心拍数が跳ね上がる。
これは罠だ。
三大財閥の一族に甚大な損害を与えうる、致命的な落とし穴。
「私の考えは……」
私はシャンパングラスを置き、高嶺翔太を見据えた。
「このプロジェクトの地質調査報告書、もう精査したのかしら?」
場が静まり返った。
高嶺翔太が眉をひそめる。
「どういう意味だ?」
「東京湾のあのエリアは、五年前に小規模な地震があった場所よ」
私はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「地層構造が不安定になっているわ。もし大型開発を強行すれば、地盤沈下のリスクが——」
「もういい」
高嶺翔太が遮った。
「美雪、君は五年前の東京しか知らない。このプロジェクトに関しては、我々が十分な調査を行っている」
「そう」
私は彼を見つめた。
「なら、あなたの調査が正しいことを祈るわ」
神谷遼介と藤原慎一郎が顔を見合わせ、その目に不快感を滲ませる。
空気が重く淀み始めた。
その時、佐々木小春が不意に立ち上がり、グラスを持って私の前へと歩み出た。
「白石さん、私……私、乾杯させていただきます」
彼女の手は震えている。
「戻ってきてくださって、ありがとうございます。私……自分がただの身代わりだということは、ずっとわかっていましたから」
彼女の声はか細いが、静まり返った個室では誰の耳にもはっきりと届いた。
私は彼女を見上げ、あることに気がついた。
この女の子、ただものではない。
彼女は今、最も卑屈な態度を取ることで、私を道徳的な優位に立たせたのだ。
もし私が杯を受ければ、彼女の「身代わり」という立場を肯定することになり、私が傲慢な女に見える。
もし拒絶すれば、彼女の顔を潰すことになり、私が冷酷な女に見える。
見事なまでの、負けるが勝ちの戦法。
私はグラスを受け取り、一息に飲み干した。
「佐々木さん、そんなに他人行儀にしなくていいわ」
私は彼女の瞳を覗き込む。
「私たち、同じ女性同士でしょう? お互いに傷つけ合う必要なんてないわ」
彼女は一瞬呆気にとられ、その目に驚きの色を浮かべた。
「でも——」
私は言葉を切ると、視線を高嶺翔太に向けた。
「翔太、あなたにはもう佐々木さんがいるのだから、私たちの婚約、解消しましょうか」
場内がどよめいた。
高嶺翔太の顔色が瞬時に曇る。
「何だと?」
「婚約解消よ」
私は雲一つない空のように晴れやかに笑った。
「私が戻ってきたのが迷惑なんでしょう? なら、あなたたちの幸せを願って身を引くわ」
「美雪、気でも狂ったか?」
神谷遼介が立ち上がる。
「白石家と高嶺家の提携が、両家にとってどれだけ重要か理解しているのか?」
「もちろん知っているわ」
私はグラスを置いた。
「でもそれ以上に、愛のない結婚がどれほどの地獄か、誰にとっても明白でしょう?」
私は出口へと背を向けた。
背後から、高嶺翔太の氷のような声が追いかけてくる。
「美雪、後悔するぞ」
私は振り返らなかった。
個室を出て、廊下の壁に寄りかかりながら、震える指先でシステムパネルを開く。
『【現在の好感度】-30』
『警告! シナリオが完全に崩壊しました!』
『【システムの推奨】直ちに謝罪し、原シナリオへ復帰してください』
私はパネルを消し、深く息を吐いた。
その時、背後から足音が近づいてきた。
振り返ると、そこには佐々木小春が立っていた。
彼女の瞳から卑屈さは消え、代わりに値踏みするような光が宿っている。
「白石さん」
彼女は静かに口を開いた。
「本当に……婚約を解消するおつもりですか?」
「あら、心配?」
「いいえ」
彼女は首を横に振り、口元に苦い笑みを浮かべた。
「ただ、もし本当にそうされたら、高嶺さんは白石さんに身の毛もよだつような報復をするだろうと忠告したかっただけです」
「へえ? 私を脅しているの?」
「脅しではありません。事実です」
彼女は一歩近づき、声を潜めた。
「白石さん、この三年間、私がどう扱われてきたかご存知ですか? 雨の夜に土下座させられ、人前で罵倒され、白石さんと同じ服を着ることを強要され……」
彼女の眼縁が赤く染まる。だが、涙は流れない。
「彼が私にした仕打ち、もし婚約を解消すれば、彼は十倍、百倍にして白石さんに返すでしょう。彼の目には、白石さんこそが自分を捨てた裏切り者として映るのですから」
私は彼女を凝視し、不意に問いかけた。
「なら、どうして逃げないの?」
彼女は言葉を詰まらせた。
「三年もの間、逃げる機会はいくらでもあったはずよ」
私は一言一句、噛み含めるように告げる。
「でも、あなたはそうしなかった。なぜ?」
彼女は唇を噛み、瞳の奥で葛藤を揺らめかせた。
しばらくして、彼女はようやく口を開く。
「それは……彼を、愛しているから」
「嘘ね」
私は冷笑した。
「その目にあるのは愛じゃない。憎しみよ」
彼女の瞳孔が激しく収縮する。
私は彼女に顔を寄せ、二人だけの秘密を囁くように声を落とした。
「佐々木さん、あなたは彼を憎んでいる。骨の髄までね。それでも留まっているのは、機会を待っているからでしょう? 彼を徹底的に破滅させる機会を」
「……そうでしょ?」
彼女の身体が震えている。
長い沈黙の後、彼女は顔を上げた。その瞳から、すべての偽装が剥がれ落ちていた。
そこにあったのは、憤怒と不屈、そして……野心に満ちた炎。
「白石さん」
彼女は絞り出すように言った。
「随分と、聡明な方ですね」
私は笑った。
「だから、手を組まない?」
彼女は呆気にとられた。
「え?」
「手を組まないかと言ったの」
私は彼女を真っ直ぐに見つめる。
「あなたは復讐を望み、私は任務を遂行したい。私たちの目的は一致している——高嶺翔太に代償を払わせることよ」
彼女は私を見つめ返し、複雑な表情を浮かべた。
「どうして……私に手を貸すのですか?」
「操り人形でいるのは性に合わないの」
私はエレベーターへと歩き出した。
「よく考えておいて。明日、白石商事に来なさい」
エレベーターの扉が閉まる寸前、私は彼女がその場に立ち尽くし、その瞳に新たな炎を宿したのを見た。
チン——
エレベーターが下降を始める。
システムパネルが発狂したように点滅する。
『深刻な警告! ホストは重要キャラクターと非シナリオ的な関係を構築しています!』
『この行動は世界線の完全な崩壊を招きます!』
『直ちに中止してください!』
私は冷ややかに笑い、パネルを消去した。
崩壊したければすればいい。
どうせ原シナリオのままでは、私は負け犬のように虐げられる運命だ。
なら、すべて賭けてやる。
エレベーターが一階に到着し、扉が開いた瞬間、そこに高嶺翔太が立っていた。
その表情は恐ろしいほどに陰鬱だ。
「美雪、さっき小春と何を話していた?」
私はドレスの裾を整え、優雅にエレベーターを降りる。
「別に。ただの女性同士の会話よ」
「君——」
「翔太」
私は彼の言葉を遮り、その目を射抜いた。
「覚えておきなさい。今日から私たちは赤の他人よ」
「婚約解消だと?」
彼は鼻で笑う。
「白石家がそれを許すとでも?」
「お手並み拝見、といったところかしら」
私は彼の横をすり抜け、出口へと向かった。
料亭の扉を開けると、東京の夜気が肌を打つ。
ネオンが瞬き、車のライトが川のように流れていく。
私は六本木の街角に立ち、深く息を吸い込んだ。
システムパネルが最後の警告を表示する。
『ホストは完全にシナリオから逸脱しました』
『【現在の好感度】-50』
『【任務失敗までのカウントダウン】30日』
私はその数字を眺め、口元に冷酷な笑みを刻んだ。
三十日?
十分よ。
このふざけた世界をひっくり返すにはね。
