第3章

 六本木の料亭を後にして、私はまっすぐ白石家には帰らなかった。

 車は東京の夜を縫うように走り、ネオンの光が車窓を流れていく。私はスマートフォンの画面に表示された佐佐木小春からの住所を見つめ、わずかに眉をひそめた。

 渋谷区、神泉町三丁目。

 そこは東京でも有数の古い住宅街であり、高嶺翔太が住む代官山の豪邸とは、まさに月とすっぽんだ。

「白石様、本当に行かれるのですか?」

 バックミラー越しに私を見る運転手の目には、懸念の色が浮かんでいる。

「あの辺りは、あまり治安がよくありませんが」

「構わないわ」

 私は携帯電話を閉じた。

「下で待っていて」

 二十分後、車は古びたアパートの前に停車した。

 外壁の塗装が剥がれ落ち、廊下のセンサーライトは半分が壊れている。空気にはカビと安っぽい洗剤の臭いが立ち込めていた。ヒールで狭い階段を上がるたび、軋むような音が響く。

 三階、三〇二号室。

 私は手を上げてドアをノックした。

 すぐにドアが開いた。

 佐佐木小春が入り口に立っていた。彼女はすでにあのサイズの合わないピンクのドレスを脱ぎ、シンプルな部屋着に着替えていた。長い髪は無造作にポニーテールに束ねられている。私を見て、彼女は明らかに動揺した様子を見せた。

「白石さん? どうして……」

「考えがまとまったら来るように言ったでしょう?」

 私は躊躇なく部屋へと足を踏み入れた。

「待ちきれなかったのよ」

 そこは二十平米にも満たないワンルームだった。キッチン、寝室、リビングがすべてひしめき合い、唯一の窓は隣のビルの壁に面している。だが意外なことに、この狭い空間は整然と片付けられていた。

 さらに意外だったのは——

 机の上に整然と並べられた数部の『日本経済新聞』と、その横に積まれた分厚いビジネスレポートの山だ。表紙には「ゴールドマン・サックス」、「モルガン・スタンレー」のロゴが印字されている。

 私は歩み寄り、何気なくレポートの一冊を開いた。

 びっしりと書き込まれた注釈。三色のペンで重要なデータがマーキングされ、余白には分析と計算式が埋め尽くされている。

『東京湾開発プロジェクト地質リスク評価』、『高嶺グループキャッシュフロー分析』、『神谷金融レバレッジ比率試算』……。

 指がレポートの上で止まる。私はゆっくりと顔を上げ、佐佐木小春を見た。

 彼女はドアのそばに立ち、唇を噛み締めながら、視線をさまよわせていた。

「あなた、何者?」

 私は一言一句、区切るように問いかけた。

 彼女は何も答えない。

 私は彼女の目の前まで歩み寄り、その瞳を覗き込んだ。

「ただの身代わりなら、こんなものは読めないわ。本当のあなたは誰?」

 十数秒の沈黙が続いた。

 不意に、彼女が笑った。その笑みには、自嘲と解放感が混じっていた。

「本当にお目が高いですね、白石さん」

 彼女は机に向かい、一枚の書類を私に差し出した。

「早稲田大学大学院経済学研究科修士課程修了証書 佐々木小春」

 証書を受け取り、素早く目を通す。

 早稲田大学、経済学修士。専攻は企業金融と資本市場。卒業成績はオールA。

「早稲田の秀才だったのね」

「かつては」

 彼女はベッドの端に腰を下ろした。その声は恐ろしいほど静かだった。

「本来なら博士課程に進むはずでした。教授が全額奨学金の申請も済ませてくれていたんです。でも……」

 彼女は言葉を区切った。

「父に癌が見つかって、多額の治療費が必要になりました。学業を諦めて、働くしかなかったんです」

 私は彼女を見つめ、続きを待った。

「三年前、私は小さな投資会社でアナリストをしていました」

 彼女が顔を上げる。その瞳に苦痛の色が走った。

「高嶺翔太が提携の話で来社し、私を見つけたんです。彼は私が初恋の人に似ていると言い、自分の……パートナーにならないかと持ちかけてきました」

「報酬は月二百万。加えて、父の治療費は全額負担すると」

 私の呼吸が一瞬止まる。

 月二百万。三年間で七千二百万だ。新卒の学生にとっては天文学的な数字だろう。

「私は承諾しました」

 彼女の声が震え始めた。

「ただ食事に付き合い、パーティーに出席し、あなたの身代わりを演じればいいのだと思っていました。でも、まさか……」

 彼女は突然腕を上げ、袖をまくり上げた。

 腕には無数の傷跡が刻まれていた。すでに癒えたものもあれば、まだ新しいものもある。

「雨の日の土下座、人前での侮辱、冷酷な精神的暴力……」

 彼女は噛み締めるように言った。

「白石さん、感情の掃き溜めにされるのがどんな気分か分かりますか? 彼はあなたを思い出すたびに、私を痛めつけるんです。彼の目には、私があなたの安っぽい代用品にしか映っていないから」

 私の指に力がこもる。

「それでも、私は逃げられません」

 彼女は袖を下ろし、絶望的な目で私を見た。

「父の治療費はすべて高嶺グループが支払っています。契約書にはっきりと書かれているんです——契約違反の場合、元本に利息をつけて全額返済し、さらに違約金として元本の三倍を支払うこと、と」

「それは、二億円になります」

 私は息を呑んだ。

 二億円の負債。一般家庭にとっては、永遠に返済不可能な金額だ。

「だからこの三年間、私は彼の虐待に耐えながら、密かに彼のビジネス構造を研究してきました」

 彼女は立ち上がり、机の上にある『東京湾プロジェクト』の分析レポートを手に取った。

「今夜あなたが仰った通り、東京湾プロジェクトには深刻な地質的問題があります」

 彼女はレポートを開き、あるデータを指し示した。

「この区域では五年前に小規模な地震が発生しましたが、より重要なのは——地下水位の異常と、地盤支持力の不足です」

「現在の設計案のまま施工すれば、遅くとも二年以内に、地盤沈下によってプロジェクト全体が破綻するでしょう」

 顔を上げた彼女の瞳に、ある種の炎が燃え上がっていた。

「高嶺グループは百五十億、神谷金融は五十億、藤原不動産は八十億を投資しています。関連融資を含めれば、総額は四百億を超えます」

「プロジェクトが崩壊すれば、三大財閥一族は大打撃を受けることになる」

 私は彼女を見つめた。心臓が高鳴る。

 この少女は、ただのか弱い身代わりではない。

 彼女は、三年間潜伏し続けた時限爆弾だ。

「このプロジェクトの問題点、ずっと前から知っていたの?」

「半年前に気付きました」

 彼女はレポートを閉じた。

「ですが、ずっと機会を待っていたんです」

「なんの機会?」

「私と手を組める人を」

 彼女は私を見据えた。その眼差しは鋭利な刃のようだ。

「白石さん、今夜あなたは私に、なぜ逃げないのかと尋ねましたね。今ならお答えできます——高嶺翔太を、この手で破滅させるためです」

「でも、私一人では不可能です。資金が、人脈が、海外のリソースが必要なんです」

 彼女は一歩、また一歩と私に近づく。

「そしてあなたには、そのすべてがあります」

 私は彼女を見て、不意に笑みをこぼした。

「佐佐木さん、高嶺グループ最大の弱点を知っている?」

 彼女は一瞬きょとんとし、すぐに口を開いた。

「伝統的な製造業への過度な依存、IT新興市場への反応の遅れ、キャッシュフローの逼迫……」

 言いかけて、彼女は急に口をつぐみ、警戒心を露わにして私を見た。

「待ってください、なぜそんなことを?」

 私は彼女の机に歩み寄り、ペンを手に取ると、白紙の上に数文字を書き記した。

 雪春キャピタル。

「え?」

「私たち自身のビジネス帝国を築くのよ」

 私はペンを置き、彼女を振り返った。

「そして、彼らが地に這いつくばって許しを乞うのを見下ろしてやるの」

 彼女の目が大きく見開かれた。

「それは、つまり……」

「資金と海外リソースは私が受け持つ。あなたは国内市場の分析と実務を担当して」

 私は一語一語、力を込めて言った。

「高嶺グループの脆弱な部分から食い破り、少しずつ彼らの市場シェアを蚕食していくのよ」

「彼らが気づいた時には、もう手遅れになっているようにね」

 佐佐木小春は私を凝視し、呼吸を荒らげた。

「でも……それには莫大な初期投資が必要です。少なくとも数十億は……」

「あるわ」

 私は彼女の言葉を遮った。

「白石商事の海外口座には十分な資金がある」

 これはシステムが私に与えた記憶だ。白石美雪はニューヨークでの五年間、一連の投資成功によって莫大な個人資産を築き上げていた。

「ですが……」

 彼女はまだ躊躇している。

「一度始めたら、もう後戻りはできません。高嶺翔太は私たちを許さないでしょう」

「やらせてみればいいわ」

 私は彼女の目を射抜いた。

「佐佐木小春。あなたは一生彼の影に怯えて暮らしたいの? それとも、自分自身の人生をその手で奪い返したい?」

 彼女の体が震えていた。

 長い沈黙の後、彼女は深く息を吸い込み、手を差し出した。

「やります」

 私はその手を握り返した。

 高嶺翔太に傷つけられた二人の女が、この狭く薄汚れたアパートで、東京の複合商業施設全体を覆すほどの同盟を結んだ瞬間だった。

 その時だ——。

「小春! いるか?」

 ドアの外から、突然高嶺翔太の声が響いた。

 私と佐佐木小春は同時に凍りついた。

 彼女の顔から血の気が引き、瞳に恐怖が走る。

「ベランダへ!」

 彼女は声を殺して言った。

「早く!」

 私は素早くベランダへ移動し、ガラス戸を開けた。

 東京の夜風が吹き込み、早春の寒気を運んでくる。私はベランダの隅に身を潜め、カーテンの隙間から室内を窺った。

 佐佐木小春は深呼吸をして髪を整えると、ドアを開けた。

「高嶺さん、こんな夜更けにどうして……」

「うるさい」

 高嶺翔太は彼女を突き飛ばし、部屋に上がり込んできた。

「白石美雪がさっき来ただろう?」

「い、いいえ……」

「嘘をつくな!」

 彼は彼女の腕を乱暴に掴み上げた。彼女が痛みに声を上げるほどの力だ。

「中村があの女の車がこの下に停まっているのを見たと言っている! 何を話した?」

「何も話していません!」

 佐佐木小春は必死に抵抗した。

「白石さんはただ警告に来ただけです、あなたに近づくなと……」

「警告だと?」

 高嶺翔太は冷ややかに笑った。

「あの女に何の資格がある? 婚約破棄したからといって俺から逃げられるとでも思っているのか? 夢を見るな!」

 彼は机に近づき、そこに置かれたビジネスレポートを目にした。

 私の心臓が止まりそうになる。

 終わった。

 だが、佐佐木小春の反応は劇的だった。彼女は駆け寄り、高嶺翔太の腰にすがりついたのだ。

「高嶺さん、お願いです、見ないでください! それは……私がこっそり勉強していた資料なんです。ただ、もっと優秀になりたくて、もっとあなたに相応しい女になりたくて……」

 彼女の声は涙を帯び、瞳からは大粒の涙が溢れ出している。

 高嶺翔太は一瞬呆気にとられ、それから乱暴に彼女を突き放した。

「俺に相応しいだと? 少しビジネスをかじったくらいで、俺に釣り合うとでも思ったのか?」

「小春、よく覚えておけ」

 彼は屈み込み、残忍な口調で言い放った。

「お前はただの身代わりだ。安っぽい、いつでも捨てられる代用品だ」

「分かったか?」

 佐佐木小春は床に跪き、頭を垂れて震えていた。

「分かりました……」

「よろしい」

 高嶺翔太は立ち上がり、スーツを直した。

「明日の夜、神谷家のパーティーに出席する。お前も来い。あの黒いドレスを着てくるんだ、白石美雪とお同じものをな」

 そう言い捨てて、彼は背を向けて去り、乱暴にドアを閉めた。

 部屋に静寂が戻る。

 ベランダから戻ると、佐佐木小春はまだ床に跪いたまま、肩を激しく震わせていた。

 だが、彼女は泣いていなかった。

 顔を上げた彼女の瞳に涙はなく、ただ凄まじいほどの憎悪が渦巻いていた。

「白石さん」

 彼女の声は掠れていた。

「いつ、始めますか?」

 私は彼女の前に歩み寄り、手を差し伸べて彼女を立たせた。

「明日よ」

 私は言った。

「明日、会社を設立しましょう」

「社名は——」

 私は彼女の目を見据え、一言一言を噛み締めるように告げた。

「『雪春キャピタル』」

 雪は、私の名。

 春は、彼女の名。

 今日から私たちは、誰かの「高嶺の花」でも、誰かの身代わりでもない。

 私たちは、私たち自身の支配者になるのだ。

 佐佐木小春は私を見つめ返し、その瞳の炎はいっそう激しく燃え上がった。

「はい」

 彼女は拳を握りしめた。

「思い知らせてやりましょう。彼らが足元に踏みつけていた女たちが、どれほど恐ろしい存在かを」

 私はドアへと向かった。

 スマートフォンが振動し、システムパネルがポップアップする。

『【警告】ホストが重要キャラクターと深度同盟を締結』

『【現在好感度】-50』

『【シナリオ崩壊度】89%』

『【ミッション失敗まで】残り29日』

 私はその数字を見て、口元に冷酷な笑みを浮かべた。

 二十九日?

 十分だ。

 私と佐佐木小春が、この腐敗した世界を引き裂くには十分過ぎる時間だ。

 そして、雲の上にいる男たちに、地面へと叩きつけられる感覚を味わわせてやる。

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