第2章
少女のその怯えた様子を見て、皐月秋雨の瞳に一瞬、嫌悪の色が走った。
この夢というガキは、いつまで経っても懐かない犬のようだ。
この三、四年の間、衣食住の世話から通院の付き添いに至るまで、それなりに手を尽くしてやったというのに。
この子を利用して将来の「篠宮夫人」の座に就くためでなければ、秋雨は一分一秒たりとも、この機嫌を取るような真似はしたくない。
夢に嫌われていると知りつつも、秋雨は面の皮を厚くして、作り笑顔で両手を差し出した。
「夢ちゃん、ママが抱っこしてあげる」
その言葉を聞いた夢は、ぷいと顔を背け、篠宮湊の首に強くしがみついた。
そして、あどけない声で言った。
「……でも、パパがいい。パパ抱っこ……」
篠宮湊はそんな夢の姿を見て、愛おしそうに背中を優しく撫でた。
「いい子だ、夢。怖くないぞ。パパがいる。パパが抱っこしているからな」
夢をあやし終えると、彼は再び秋雨に視線を戻した。その眼差しは相変わらず冷たい。
「子供はまだ小さい。嫌がっているのを無理に抱こうとするな」
「今は、エーマ先生を見つけること、それが君の最大の功績になる」
篠宮湊がそう言い終えた直後、秘書の霧島真が携帯電話を手に歩み寄ってきた。
「篠宮社長、病院の知人から連絡がありました。エーマ先生はすでに市立病院に到着されたそうです……」
霧島の報告に、秋雨の顔色が変わった。
「なんですって? 私たちがこんなに大勢で出迎えのボードを持って待っていたのに、病院へ直行したというの?」
秋雨は篠宮湊に、エーマはこの便で到着すると断言していたのだ。
ここで会えなかったとなれば、篠宮湊の心証を損ねてしまう。
霧島は気まずそうに秋雨を見やり、篠宮湊の判断を待った。
しばしの沈黙の後、篠宮湊が命じた。
「行くぞ。病院へ向かう……」
同時刻、すでに病院に到着していた皐月夏帆は、後輩の暁月海斗から黒川社長の父親に関する検査結果と手術プランを受け取っていた。
暁月海斗は夏帆の横に立ち、申し訳なさそうに言った。
「先輩、僕の腕ではやはり不安で……黒川社長のお父様のような大手術は、患者の年齢もあってリスクが高すぎるんです」
「万が一を考えて、先輩に緊急の助っ人をお願いした次第です……」
皐月夏帆は書類に目を通しながら答えた。
「構わないわ。この症例は国内では珍しいし、確かに難易度は高い」
「手術室に伝えて。三十分後に開始するわ。ただし、助手にあなたが入って」
暁月海斗は即座に頷いた。
「はい、先輩。助手を務めさせていただけるなんて光栄です」
実際、ここ数年海外で研鑽を積んだ皐月夏帆の医療技術は、国内のみならず海外でも並ぶ者がいないほどのレベルに達していた。
ただ、夏帆は目立つことを嫌い、医師として活動する際は本名を使わず「エーマ」という名を使い、医療界で最も神秘的な存在となっていたのだ。
もし暁月海斗と同窓のよしみがなければ、彼もこの手術を夏帆に頼むことなどできなかっただろう。
術前準備はすべて整った。
皐月夏帆は手術室に入る前、明と夜の二人に言い聞かせた。
「明、夜。休憩室で大人しく待っているのよ。今回の手術は少し時間がかかるから、いい子にしていてね」
「手術が終わったら、おばさんが迎えに来てくれるわ。何か必要なことがあったら、暁月おじさんか病院のスタッフに言いなさい。助けてくれるから」
夏帆の言葉に、明と夜は素直に頷いた。
二人はそれぞれ、ノートパソコンと高性能なスマートフォンを手に、すでに自分の世界に入り込んでいる。
明が夏帆に手を振った。
「ママ、仕事に行ってきて。妹のことは僕がちゃんと見てるから」
夏帆は我が子たちを見て、安堵の笑みを浮かべた。長年、仕事に追われてきた彼女のため、二人の子供は幼い頃から自立しており、夏帆の手を煩わせることはほとんどなかった。
子供たちを落ち着かせると、夏帆は手術室へと入っていった。
その頃、篠宮湊と皐月秋雨の一行が慌ただしく病院に到着した。知人を通じてエーマ先生がすでに手術室に入ったことを知ると、篠宮湊は焦りを滲ませた。
娘の夢は、生まれた時から心臓に小さな欠陥を抱えている。
これまで彼は夢を連れて国内外の病院を回ったが、誰一人として軽々しく手術を引き受けようとする医師はいなかった。
ようやく名医エーマの情報を掴み、一縷の望みをかけて会いに来たというのに、またしてもすれ違ってしまったのだ。
皐月秋雨は焦る篠宮湊を見て、尋ねた。
「湊、どうするの?」
篠宮湊は不機嫌そうに彼女を一瞥した。
「どうするも何もない。待つしかないだろう」
「でも、いつ出てくるかわからないのよ? ずっとここで待ち続けるつもり? たかが医者の分際で、偉そうすぎない?」
皐月秋雨は不満げに愚痴をこぼした。
それを聞いた篠宮湊は、鋭い視線で彼女を睨みつけた。
「皐月秋雨、言葉を慎め。『たかが医者』だと? 彼女は世界トップクラスの医師だ。夢の手術ができるかどうかは、彼女の判断にかかっているんだぞ」
「夢は俺たちの子供だ。お前は娘の身体が心配じゃないのか?」
篠宮湊の詰問に、秋雨はバツが悪そうに笑い、目的のために殊勝な態度を取り繕った。
「湊、そういう意味じゃないわ……夢の病状が心配だからこそ、つい口が滑ってしまったの」
「私は夢の実の母親よ。娘の健康を心配しないわけがないじゃない」
「私の心臓と夢の心臓を取り替えられるなら、喜んでそうするわ」
秋雨の言葉は白々しく響いた。自分の心臓を差し出すなど、あり得ない話だ。
篠宮湊はそれ以上秋雨と言い争うことをやめ、椅子を見つけて夢を抱いたまま腰を下ろした。
彼は終始、夢を大切に守り、果物を食べさせる時でさえ、喉に詰まらせないよう少しずつ口に運んでやった。
その甲斐甲斐しい姿を見て、秋雨は嫉妬に駆られた。
あの忌々しい娘、生まれつき運がいいなんて。篠宮湊の献身的な世話を受ける資格がどこにあるというの?
篠宮湊は本来、エーマが出てくるまで手術室の前で待つ予定だった。しかし途中、会社から緊急のトラブルを知らせる電話が入り、どうしても戻らなければならなくなった。
状況が膠着する中、皐月秋雨がここぞとばかりに進み出た……。
