第4章
夜は小さな頭をポリポリとかき、数秒考え込んでから口を開いた。
「でも、ママは私しか産んでないって言ってたけど?」
夢の言葉に、夜は眉をひそめた。
「ねえ、本当にあの人が実の母親なの? DNA鑑定とかしたことある?」
DNA鑑定という言葉に、夢は言葉を詰まらせた。
皐月秋雨の普段の態度を思い返す。まさか、本当に皐月秋雨は実の母親ではないのだろうか?
その疑念が、夢の小さな頭の中で急速に膨らんでいった。
皐月秋雨が実母かどうかわからなくなった夢は、自分にも両親がいるのだと証明しようと、篠宮湊の話を持ち出した。
彼女は言った。
「パパとはDNA鑑定をしたの……私はパパの実の子供だって」
「パパは私にとっても優しいの。すごく愛してくれてるもん」
夢の言葉に、夜はまた眉を上げた。
「ふうん。あんたのパパも大したことないわね。本当に愛してるなら、こんなところで泣かせたりしないでしょ」
夢は少し悔しそうにうつむき、黙り込んでしまった。
夜はここぞとばかりに、夢を言いくるめにかかった。
「ねえ……私たちこんなに似てるんだし、もしかしたらあんたが私の行方不明のお姉ちゃんかもしれないじゃない? 一回、DNA鑑定してみない?」
夢は深い思案に沈んだ。夜の言葉に心が動かされ始めていた。
夜がもう少し事情を聞き出そうとしたその時、外から皐月秋雨の苛立った怒鳴り声が響いた。
皐月秋雨がトイレの中に向かって叫ぶ。
「夢! トイレに落ちたの? 早く出てきなさい!」
「いつまで入ってるのよ。一生そこに入ってなさい!」
皐月秋雨の声を聞いた途端、夢は反射的に身を縮こまらせた。彼女は夜をじっと見つめ、皐月秋雨の元へ戻ろうとした。
その瞬間、夜は何かに気づいたように、夢をトイレの奥へと押しやり、自分が出口の方へ向かった。
夢が呆気にとられている間に、夜はドアの外で皐月秋雨と対峙していた。
夜はまだ幼いが、気性は決して小さくない。普段から気に入らない相手には容赦なく噛み付く性格だ。
そのため、親しい人たちは彼女に「皐月の虎」というあだ名をつけているほどだ。
「皐月の虎」モードに入った夜が、皐月秋雨を簡単に見逃すはずがない。
夜は皐月秋雨に向かって言い放った。
「ママ、ママはトイレに落ちたことあるの? それともトイレに住んでたことでもあるわけ?」
スマホをいじっていた皐月秋雨は、その言葉を聞いて表情を凍らせた。
なんだか、夢の様子がいつもと違う気がする。これがあの、私の前ではいつもオドオドしていた夢だというの?
彼女は顔を曇らせ、夜を罵った。
「夢、いい度胸ね? ママに向かってそんな口の利き方して」
夜は口を尖らせ、即座に反撃した。
「先に言ったのはそっちでしょ。なんで言い返しちゃダメなの?」
「あんたっ……!」
皐月秋雨は激怒した。彼女は簡単に引き下がるような女ではない。
周囲を見回し、誰もいないことを確認すると、夜に向かって手を伸ばした。
派手なネイルアートを施した、尖った爪の手が、夜の腕を思い切りつねり上げた。
鋭い痛みに夜の顔が歪み、涙が滲んだ。
それでも皐月秋雨の気は済まない。彼女はさらに夜を罵った。
「このクソガキ、今回はちょっとしたお仕置きよ。また口答えしたら、次は首を絞めてやるからね」
夜は怒りを堪え、言い返さなかった。
彼女には考えがあった。さっき夢が言っていた、「パパは私を愛してる」という言葉。夜は夢のパパの手を借りて、この自分をつねった性悪女に制裁を加えてやるつもりだった。
皐月秋雨は夜が黙ったのを見て、勝ち誇ったような目つきで見下ろした。
生意気なガキめ。やっぱりあの卑しい女の子供だわ。母親そっくりで、痛い目に遭わせないと大人しくならないのね。
皐月秋雨は夜の手を引き、再び手術室の外へと連れて行った。
時間は刻一刻と過ぎ、手術室での高難度手術も終わりに近づいていた。
疲労困憊の皐月夏帆が手術台から降りた。
暁月海斗が子分のように彼女に付き従い、詫びた。
「先輩、お疲れ様でした。僕の未熟さのせいで、到着早々手術をお願いしてしまって」
皐月夏帆は医療用手袋を外し、額の汗を拭いながら言った。
「いいのよ。人命救助のためだもの」
「先輩、黒川社長のお父様の手術費用は明日口座に振り込みます」
「それと、ホテルも手配しておきました。後で住所を送ります」
暁月海斗の説明に、皐月夏帆は頷いた。
その時、暁月海斗の助手が慌てて駆け寄ってきた。
「暁月院長、ご報告があります。霍氏グループの篠宮湊氏から連絡があり、エラ先生にお会いしたいと……」
篠宮湊という名を聞き、暁月海斗は眉をひそめた。
「彼が? エラ先生に何の用だ?」
助手は続けた。
「お嬢様の体調が思わしくなく、エラ先生に診ていただきたいそうです」
暁月海斗は少し沈黙した後、言った。
「診察希望なら正規の手続きを踏むべきだ。手術室の前で待ち伏せなんて非常識だろう」
「彼らを帰らせろ。エラ先生は大手術を終えたばかりで疲れているんだ」
「わかりました」
暁月海斗はきっぱりと断った。
助手は困惑した。篠宮家ほどの力があれば、手術室の前で何時間も待つ必要などないはずなのに。
皐月夏帆は子供たちが待ちくたびれているのではないかと心配し、着替えを済ませて休憩室へ向かった。
ちょうどその時、親友でありアシスタントの水色未羽から電話が入った。
「夏帆、病院の下に着いたわ。ここは駐車禁止だから、早く子供たちを連れて降りてきて……」
皐月夏帆は返事をし、急いで休憩室へ飛び込んだ。
明が一人でパソコンをいじっているのを見て、尋ねた。
「明、夜は?」
