第5章

明は顔を上げ、皐月夏帆に告げた。

「妹なら、トイレに行ったよ……」

皐月夏帆は踵を返し、トイレの方へ走った。

走りながら、彼女は明に声をかける。

「明ちゃん、早く荷物をまとめて! おばちゃんが下で待ってるの。駐車できないから急がないと……」

言い終わる前に、皐月夏帆はトイレに飛び込んだ。

その頃、まだトイレにいた夢は、背伸びをして洗面台の蛇口に手を伸ばそうとしていた。

そこへ皐月夏帆が風のように現れ、夢をひょいと抱き上げると、すぐに休憩室の方へと駆け出した。

皐月夏帆の腕の中にいる夢は、頭が真っ白になった。

皐月夏帆から漂うほのかな香りが鼻をくすぐった瞬間、夢はこの見知らぬ女性に対して、不思議なほどの親近感を覚えた。

夢を抱いて休憩室に戻ると、明はすでに荷物をまとめていた。

皐月夏帆は明の手を引き、足早に階下へと向かった。

一方、会社での事務処理を終えた篠宮湊は、再び手術室の前へと戻ってきていた。

皐月秋雨は篠宮湊の姿を見ると、媚びへつらうような笑みを浮かべて迎えた。

「湊、さっき手術中のランプが消えたわ。手術は終わったみたい。今行けば、きっとエーマ先生を捕まえられるはずよ」

少し離れた場所に立っていた夜は、皐月秋雨が「エーマ先生を捕まえる」と言うのを聞き、小さな頭をフル回転させた。

ママは大手術を終えたばかりで疲れているはず。こんな人たちに捕まったら、ママがどれだけ大変か。

だめだ、絶対に皐月秋雨にいい顔なんてさせてやらない。

まだ夜は、この長身の男が夢の言うパパかどうか確信が持てていなかったが、阻止しなければならない。

篠宮湊は皐月秋雨の機嫌取りを無視し、夜の手を引いて手術室の方へ歩き出した。

この時、夜は確信した。この男が、夢とDNA鑑定をしたパパだ。

意外にも、この男は娘に対しては悪くないようだ。

さっき皐月秋雨につねられた恨みを晴らすため、演技派の夜は即座に芝居を始めた。

篠宮湊に手を引かれ、手術室へ向かおうとしたその時、さっきまで顔色の良かった夜が、声を張り上げて泣き出したのだ。

「パパ、痛い……痛いよぉ……」

彼は慌ててしゃがみ込み、神色を乱して夜を気遣った。

「夢、どうした? どこが痛いんだ? パパに言ってみろ」

そばにいた皐月秋雨は、この光景を見て緊張した。彼女は夜を睨みつけ、余計なことを言うなと目で脅した。

だが残念ながら、夜は夢ではない。言いなりになるような子供ではないのだ。

篠宮湊が夜の身体を確認している隙に、夜はわざとらしく、皐月秋雨につねられて青くなった腕の皮膚を露出させた。

その青あざを見た瞬間、篠宮湊の顔色が急変した。周囲の温度が一気に氷点下まで下がったかのようだった。

「夢、パパに言いなさい。この傷は誰にやられた?」

夜は内心ほくそ笑んだ。皐月秋雨、さっき目で脅してきたわね? なら、たっぷりと授業をしてあげる。

夜は怯えたように皐月秋雨をちらりと見やり、それから悲しげに篠宮湊を見た。

そして、しゃくりあげるだけで何も言わない。

子供のその視線だけで、篠宮湊はすべてを悟った。

この傷は、皐月秋雨がやったのか。

「皐月秋雨、答えろ。夢のこの傷はどういうことだ?」

篠宮湊の鋭い声が皐月秋雨を刺した。

皐月秋雨は狼狽した。

「あの……湊、聞いて、私は……」

皐月秋雨が言い訳を終える前に、夜は泣きじゃくりながら篠宮湊の胸に飛び込んだ。

「パパ、ママは悪くないの。夢が悪いの。夢が言うこと聞かなくて、ママを怒らせちゃったから、ママがつねったの」

「夢がいい子じゃないから。夢が悪い子だから。夢が早く大きくならないから、ママにトイレの手伝いをさせて迷惑かけちゃったの」

「うわぁぁぁん……」

夜の言葉を聞いて、篠宮湊の顔はさらに険しくなった。

彼は顔を上げ、皐月秋雨を睨んだ。

「皐月秋雨……」

「湊、私……」

皐月秋雨は篠宮湊の視線に怯え、言葉が出なかった。

彼女は立ち尽くし、篠宮湊を見つめることしかできない。今この瞬間、夜を絞め殺してやりたい衝動に駆られていた。

「皐月秋雨、何度言えばわかる? 夢の世話をしたければすればいい。したくないなら無理強いはしない。俺の娘だ、俺が責任を持つ」

「心臓が悪くて身体が弱いんだ。俺ですら普段から怪我をさせないよう細心の注意を払っているのに、お前はあろうことか、つねったのか?」

「死にたいのか?」

篠宮湊は勢いよく立ち上がり、血走った目で皐月秋雨を睨みつけた。

その様子を見て、夜はこの男を少し見直した。

意外と、夢には結構優しいじゃない。合格点の父親ね。

待てよ……。

夢は篠宮湊とDNA鑑定をした実の娘だと言っていた。そして夢は、自分の実の姉である可能性が高い。

ということは、目の前のこの男が、私と親父の実の父親かもしれないってこと?

これは……。

夜の小さな脳みそが高速で回転する。

篠宮湊に叱責された皐月秋雨は、服の裾を握りしめ、息をするのも忘れるほど怯えていた。

このままでは本当に殺されかねない。なんとかしてこの危機を脱しなければ。

皐月秋雨は後悔に苛まれるふりをして、嗚咽を漏らしながら、涙に濡れた夜を強く抱きしめた。

夜の小さな身体が一瞬強張った。どうすればいいかわからない。

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