第1章

「キスしろ! キスしろ!」

 囃し立てるコールが、ソファの中央に座る一組の璧人を包み込んでいた。

 中田池の腕の中には村木由紀菜がいる。彼女は恥じらう素振りを見せながらトランプの一角を口に咥え、もう一角がゆっくりと中田池の唇へと近づいていく。

 私はその喧噪から数メートル離れた場所に立ち、中田池が脱ぎ捨てたばかりのジャケットを抱え、彼にサインをもらうための書類を握りしめていた。

 このS級プロジェクトを勝ち取るために、一ヶ月も徹夜を続け、胃痙攣を薬で散らしながら耐え抜いたのだ。企画書は十数回も書き直し、ようやく昨日のこと、正式決定に漕ぎ着けたばかりだった。

 なのに今、私は莫大な富をもたらした功労者でもなければ、彼の『隠し妻』ですらない。まるで空気の読めない家政婦のようだ。

「中田様、まだ躊躇ってるんですか? 村木さんが照れちゃうじゃないですか!」

 中田池はふっと笑うと、歓声の中で身を乗り出し、トランプへと食らいついた。鼻先が触れ合い、二人は深い口づけを交わす。

「ヒュー! 付き合っちゃえよ!」

「中田様、披露宴はいつですかー?」

 同僚たちの嬌声が響く。本来なら私のプロジェクト成功を祝うはずだったこの宴は、いつの間にか主役がすり替わっていた。

 窒息しそうな空気に耐えきれず、私は宴会場を背にした。無人の廊下に立ち、中田池の携帯を鳴らす。

 三十秒後、彼が大股で歩いてきた。

 彼は苛立たしげにネクタイを緩める。

「中にいるんだから、中で話せばいいだろ。わざわざ電話で呼び出すな」

 私は彼を凝視した。声が震える。

「中の人たちが何を言ってるか、聞こえましたよね」

「何の話だ?」

 中田池は気のない様子で壁に寄りかかった。

「披露宴の話か? 場のノリを真に受けるなよ」

「目の前でキスするのが場のノリですか?」

 私は一歩踏み出した。

「結婚して三年。会社のイメージのために隠したいと言うから我慢しました。村木由紀菜は取引先の娘だから世話をしろと言うから、それも我慢しました。でも、次は? 二人の子供にお祝いを包むまで、公表しないつもり?」

 中田池の表情が曇り、上位者特有の威圧感が押し寄せる。彼は私の顎を掴み、痛いほど指を食い込ませた。

「鈴川薫子、お前最近暇なのか?」

 冷淡な声が降ってくる。

「あれは忘年会の余興だ。俺が乗らなきゃ出資者の顔が立たない。それくらいの理屈もわからないのか?」

「わからないのは、どうしてあなたのメンツのために、私の尊厳が踏みにじられなきゃいけないのかってことよ!」

「いい加減にしろ!」

 中田池は私の顔を振り払い、侮蔑の眼差しを向けた。

「外で発狂するな。ヒステリックな女はみっともないぞ」

 彼は襟元を整え、もう私を見ようともしなかった。

「感情を整理してから戻ってこい。俺の顔に泥を塗るなよ」

 発狂?

 愛して八年、結婚して三年。創業から支えてきた私に、最後にかける言葉がそれ?

 遠ざかる男の背中を見つめ、私は乾いた笑い声を漏らした。

 中田池と入れ替わるように、村木由紀菜が中から現れ、私の退路を塞ぐように立ちふさがった。

 彼女は三百万は下らないオートクチュールのドレスを身に纏い、私を頭のてっぺんから足の先まで品定めすると、極めて軽蔑的な視線を送ってきた。

「あなたが中田様の恋人? こんな地味な女、中田様の趣味じゃないでしょ」

 村木由紀菜は声を潜め、勝利者の悪意を滲ませる。

「あたしがどうしてあんたの存在を知ってるか、知りたい?」

「昨日の夜、ホテルで中田様がシャワーを浴びてる間に、スマホの登録名を見ちゃったの」

 彼女は一拍置き、艶めかしい笑みを浮かべた。

「あとね、ベッドの上での彼は……家政婦のあなたよりずっと激しかったわよ」

 全身の血が凍りつく。氷の底へ突き落とされた気分だった。

 ……体の関係まであったのか。

 吐き気を催す暇もなく、村木由紀菜は不気味に口角を上げた。手にした赤ワインを自身の高価なドレスにぶちまけ、中田池が振り返る前に、私を思い切り突き飛ばしたのだ。

 足首に激痛が走り、私は床に叩きつけられた。冷や汗が背中を一気に濡らす。

「キャーッ! 鈴川さん! 何するの!?」

 村木由紀菜の悲鳴に、中田池が弾かれたように振り向いた。給仕を押し退けて駆け寄ってくる。彼は村木由紀菜の汚れた裾を見て舌打ちし、それからようやく、うずくまる私に目を向けた。

 私は歯を食いしばり、最後の望みを託して中田池を見上げた。

「足が……動かない」

「絨毯の上だぞ、大袈裟にするな」

 中田池は私の言葉を遮り、声を潜めた。

「由紀菜のドレスは三百万だぞ。騒ぎにするな。今すぐ謝れば、俺がなんとかしてやる」

 信じられない思いで彼を見る。

「彼女が突き飛ばしたのよ」

「自分でドレスを汚してあんたを陥れたとでも? 鈴川薫子、いつからそんな聞き分けのない女になった?」

 中田池はしゃがみ込み、私の腫れ上がった足首を一瞥もしない。ただ私の耳元で、聞き分けのない子供をあやすような猫なで声を出した。

「いいか、彼女の顔を立てろ。謝ってこの場を収めれば、来週の結婚記念日、アイスランドにオーロラを見に連れて行ってやる。チケットも手配済みだ」

 記念日を覚えていたのか。私が妻であることも。

 だが彼はそれを切り札にして、骨が折れるような痛みに耐え、浮気相手に頭を下げろと言うのだ。

「アイスランド、か……」

 私は壁に手をつき、激痛を堪えて立ち上がった。

 私が折れたと思ったのだろう。中田池が安堵の息を吐き、村木由紀菜に手を差し伸べようとしたその時。

「チケットは自分で使いなさいよ」

 私は彼を真っ直ぐに見据えた。瞳から光が消え失せているのが自分でもわかる。

「私は行かない」

 中田池が動きを止め、眉をひそめる。

「どういう意味だ? また癇癪か?」

 彼の問い詰めには答えず、あの男女を見ることもなく、一晩中抱えていたジャケットを近くのゴミ箱に放り込んだ。

「もう御免だってことよ」

 言い捨てて、私は引きずった足で背を向けた。

 背後で中田池の怒鳴り声が聞こえたが、もう何も届かない。

 ホテルの正面玄関を出て、スマホを取り出す。ピン留めされたアイコンをタップした。

 迷いも、長文の未練もない。

 数文字だけを打ち込み、送信ボタンを押す。

【中田池。離婚しましょう】

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