第2章
足首はひどく腫れ上がっていたが、病院には行かなかった。痛む脚を引きずり、あの冷え切った家へと戻る。
その夜、中田池が帰ってくることはなく、私が送ったメッセージが既読になることもなかった。
私は淡々とスーツケースを取り出し、自分の荷物を一つひとつ詰めていった。実のところ、荷物はそう多くない。この三年間、彼の起業資金を節約するために、まともな服などほとんど買わなかったからだ。彼がたまに気まぐれで買ってきた安物のプレゼントに至っては、一つ残らずゴミ箱に放り込んだ。
翌朝。私はプリントアウトした辞表と離婚届を携え、会社へと向かった。
私の顔を見るなり、中田池は不機嫌さを隠そうともせずに言った。
「何しに来たんだ? 脚が痛いんじゃなかったのか? 家で大人しく寝てろよ」
私が口を開く間もなく、彼のスマホが鳴り響く。画面には『村木由紀菜』の名が踊っていた。
中田池は電話に出るや否や、声色を一瞬にして甘いものへと変えた。
「由紀菜、泣かないで、ゆっくり話してごらん……え? ドアを開けた隙に猫が逃げた?」
受話器の向こうから、女の啜り泣く声が微かに漏れ聞こえてくる。
中田池は車のキーをひっ掴みながら必死になだめていた。
「分かった、分かったから。焦らなくていい。危ないから一人でうろつくんじゃないぞ。今すぐ行く。俺も一緒に探すから、絶対に見つかるよ」
通話を切ると、彼はジャケットをひっかけるように羽織り、外へ飛び出そうとする。
胸の奥から、滑稽なほどの悲哀がこみ上げてきた。
私の足首はパンパンに腫れ上がり、一歩歩くごとに激痛が走るというのに、彼は見向きもしない。それなのに、村木由紀菜が猫を一匹逃がしただけで、彼は会社のすべてを放り出し、忠犬のごとく駆けつけようとしているのだ。
「中田池、話があるの」
私は吐き気を必死に抑え込み、彼を呼び止めて二通の書類を突き出した。
「これにサインして」
彼は煩わしそうに私の手を払いのけると、一番上にあった『辞表』を一瞥し、鼻で笑った。
「鈴川薫子、また何の真似だ? この大事な時期に辞職を盾に俺を脅そうってのか? 由紀菜は猫がいなくなってパニックになってるんだぞ。お前、あいつを殺す気かよ?」
離婚届は、その下に隠れている。
中田池は中身を確かめようともしない。完全に忍耐を切らしている様子だった。
彼にとってこれは、私が村木由紀菜のもとへ行かせまいとして仕組んだ、いつもの「嫉妬深い女の茶番」に過ぎないのだ。
「分かった、サインすりゃいいんだろ! 全部書いてやるよ! だからそこをどけ! たかが猫でも命だぞ、お前はどうしてそんなに冷血なんだ?」
彼はペンを走らせ、二つの書類に殴り書きのような署名をした。紙を突き破らんばかりの筆圧は、私のわがままに対する怒りの表れだろう。
言い捨てると、彼は私になど目もくれず、大股でオフィスを出て行った。妻よりも大切な猫を救うために。
その瞬間、彼は自分がサインした離婚届を持ち去ることさえ忘れ、それが私たちを赤の他人にする契約だということにも気づいていなかった。
静寂が戻ったオフィスで、私は慌ただしく遠ざかる彼の背中を見つめ、ただただ虚しさを感じていた。
私は、長者番付トップの鈴川山介の一人娘であり、鈴川グループ唯一の継承者だ。
数年前の私は、いわゆる「真実の愛」というやつに洗脳されていた。名家の政略結婚など利益の交換に過ぎず、何も持たない貧しい青年にこそ真心があると信じ込んでいたのだ。その滑稽な理論を証明するために、私は身分を隠し、可愛がってくれた父と絶縁してまで家を飛び出し、当時の一文無しだった中田池に嫁いだ。
地下室での生活にも耐え、カップ麺を啜り、鈴川家で培ったビジネスの直感を駆使し、へそくりの私財まで密かに投じて投資や顧客を呼び込んだ。
その結果がこれだ。
私の全身全霊の献身は、彼にとって村木由紀菜の猫一匹にも劣る価値しかなかった。
私は効力を発揮した離婚届を手に取ると、踵を返して中田グループのビルを後にした。
路上の寒風に吹かれながら、心血を注いできたこの街を眺め、私はついに八年間着信拒否にし続けていた番号を呼び出した。
ワンコールもしないうちに繋がった電話の向こうから、老いた父の興奮した声が聞こえてくる。それは、恐る恐る真偽を確かめるような響きだった。
「薫子? 薫子なのか?」
その懐かしい声を聞いた瞬間、一晩中保ってきた冷静さが音を立てて崩れ去る。目頭が熱くなり、震える声が喉から絞り出された。
「お父さん……私、家に帰りたい」
