第3章

 それから丸三日、中田池が家に帰ってくることはなく、私が本当に会社へ行くのを辞めたことにも気づかなかった。

 そして三日目の夜――私たちの結婚五周年記念日が訪れる。

 机に置いてあった予備のスマホが、不意に震えだした。

 通話ボタンを押すと、受話器の向こうから中田池の声が聞こえてくる。その響きには、少なからず後ろめたさが滲んでいた。

「薫子、どこにいるんだ? まだあの晩のこと、怒ってるのか?」

 一呼吸置いて、彼の声色はさらに甘く、柔らかくなった。まるで聞き分けのない子供をあやすかのように。

「ごめん。今日が結婚五周年だってことは分かってるし、アイスランドにオーロラを見に行こうって約束したことも覚えてるよ。でもな、薫子。今、会社にはどうしても俺が必要なんだ」

「埋め合わせに、この前欲しがってたダイヤのネックレスを買ってあるんだ。ベッドサイドに置いておいたから。……もう機嫌直してくれよ、な? 早く帰ってきてくれ。家の中が冷え冷えとして寂しいんだ。お前の作った麺料理が恋しいよ」

 その情熱的ともいえる白々しい愛の告白を聞いて、私はただ滑稽さしか感じなかった。

「村木由紀菜の相手で忙しいの?」

 私は静かに問いかけた。

「中田池、最後に一度だけ聞くわ。私たち、結婚してもう五年になるのよ。そろそろ関係を公表してくれない? 私があなたの妻だって、みんなに教えてあげてよ。『遠い親戚の従妹』でも『ただの秘書』でもないって」

 電話の向こうが、死んだような沈黙に包まれる。

 数秒後、中田池はようやく口を開いた。その声には、痛いところを突かれた苛立ちと焦りが滲んでいる。

「薫子、どうしてまたその話をするんだ? 少しは物分かり良くしてくれないか? 今は融資の正念場なんだ。あの大型プロジェクトのリソースは全部、村木由紀菜が握ってる。彼女の実家には太いパイプがあるし、それに彼女は……その、俺が家庭のことで気を散らすのを嫌うんだよ。今既婚者だって公表して、もし村木由紀菜が機嫌を損ねて出資を引き上げたらどうする?」

 またプロジェクト。また村木由紀菜。

「もう少しの辛抱だ、薫子」

 彼はまた手慣れた様子で、空虚な未来図を描き始めた。

「このプロジェクトを成功させて上場したら、必ず盛大な結婚式を挙げてやるから。世界中に自慢してやるよ」

 その時、手元のもう一台のスマホが震えた。

 知らない番号から、画像付きのメッセージが届いている。

 画像を開いた瞬間、私の瞳がすっと細められた。

 背景は、どこかの五つ星ホテルのエグゼクティブスイートだ。

 写真の中では、中田池が上半身裸で熟睡していた。ついさっき電話越しに愛を囁いていたその顔は、今は枕に無防備に埋もれている。

 そして村木由紀菜はバスローブを纏い、鏡越しに自撮りをしていた。中田池の寝顔と、自分の首筋に残る生々しいキスマークが、しっかりとフレームに収まるように計算し尽くされた構図で。

 続いて、挑発的なテキストメッセージが表示される。

『お義姉さんへ。中田さん、あのプロジェクトのためにヘトヘトみたい。奥さんは朴念仁でつまらないから、私と一緒にいるほうが燃えるんですって』

 耳元では、まだ中田池が電話の向こうでまくし立てている。

「俺がこんなに必死なのは、二人の未来のためだって分かってるだろ? あのネックレス、本当に高かったんだぞ。帰ってきて着けてみてくれよ、きっと気に入るから……」

 送られてきた写真を見つめ、耳元で繰り返される虚飾の言葉を聞くうちに、かつてないほどの吐き気が込み上げてきた。

「中田池」

 私は彼の言葉を遮った。その声は、氷のように冷え切っていた。

「言い訳はもう結構。そのプロジェクト、あなたが手に入れることは一生ないわ」

 彼は一瞬、呆気にとられたようだった。

「……どういう意味だ?」

「文字通りの意味よ。お似合いのクズ男と泥棒猫、二人まとめて仲良く地獄へ落ちなさいってこと」

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