第2章

あの通りをどうやって抜けてきたのか、自分でもわからない。

気づけば私は交差点に立ち尽くし、冷たい雨に打たれていた。赤信号が嘲笑うかのように点滅している。顔が濡れているのを感じて手をやると、それは雨水ではなく涙だった。

心は完全に麻痺しているはずなのに、涙だけが止まらない。私は街灯に寄りかかり、天を仰いで雨を全身に浴びた。この雨が、私の三年間の愚かさを洗い流してくれることを願って。

記憶が、堰を切ったように溢れ出した。

千明が初めて私にキスをしたのは、半年前のことだった。

ちょうど彼が、私の実家が決めた許嫁の話を知った直後のことだ。

私はそんな話、これっぽっちも気にしていなかったけれど、彼にとっては脅威だったらしい。深夜、泥酔した彼が寮に押しかけてきた。目は血走っていた。

「俺を捨てる気か? 金持ちの男と結婚するつもりかよ!」

彼は私の肩を強く掴み、指が肉に食い込んだ。

胸が痛んだ。

「そんなことない。私が大事なのはあなただけよ」

「なら証明してみせろ」

彼は覆いかぶさるように唇を押し付けてきた。酒の味がする、乱暴で、痛みを伴うキスだった。

私は数秒間凍りついたが、やがて目を閉じ、それを受け入れた。

今振り返れば、あれは愛などではなかった。ただのマーキングだ。

そして私は、彼の独占欲を深い愛情だと勘違いしていたのだ。

「ああ……私って、本当に馬鹿」

雨の中で笑った。その声は耳障りで、壊れていた。

私は鞄の奥から別の携帯電話を取り出した。父から渡された保険代わりの端末――三年間、電源すら入れたことがなかったものだ。

登録されている番号は一つだけ。

発信ボタンを押す。コール音もそこそこに、相手が出た。

「詩織か」

ロンドン訛りの、冷静で落ち着いた男の声。

「お父様……私、帰りたい」

二秒の沈黙。

「お遊びは終わりか?」

「……終わり。私の負けよ」

「負け? 北条家に敗北などない。単にテーブルから一時退席し、カジノごと買い占めるだけのことだ」

また涙が溢れてきた。だが今度は、悲しみの涙ではない。

「ロンドン支社に行きたいの。一番下っ端から始めさせて」

「覚悟が決まったなら、執事に連絡しろ。下に車を待機させる」

通話を切り、深く息を吸い込む。体の奥底で何かが蠢いていた。

私は北条詩織。ヨーロッパ最古の金融財閥の唯一の継承者だ。曾祖父は結婚祝いで島を丸ごと買い、母はたった一枚の絵画と同じ値段で競合他社を買収した。

なのに私は――家賃すら払えない男のために、三年間もバイトに明け暮れ、学食で済ませ、安物の服を身に纏っていたなんて。

滑稽だわ。もう、この悪夢から醒める時間ね。

踵を返し、アパートへ向かって歩き出した。街外れのボロアパート。階段の電球は半年前に切れたままだ。以前は「味がある」なんて思っていたけれど、今では一歩踏み出すたびに嘲笑されている気分になる。

ドアの鍵を開けようとした時、キーホルダーがカチャリと音を立てた。

視線を落とす。黒いスーツを着た、可愛らしい陶器の人形。鋭い目つきと眉。

三年前、イギリスを離れた夜、空港である男性から茶封筒を渡された。中に入っていたのが、この手作りのキーホルダーだった。

『お守りだ』と彼は言った。

『負け犬共を寄せ付けないためのな』

冗談だと思って適当に鍵につけただけだった。三年間何度も目にしていたのに、なぜこの顔に見覚えがあるのか、深く考えたこともなかった。

ドアを開けようとしたその時、階下から足音が響いた。

「詩織!」

千明が駆け上がってくる。髪は乱れ、顔は赤い。その後ろには愛理。目には勝ち誇ったような光が宿っている。

「一体どこに行ってたんだよ!」

彼は私の手首を掴んだ。

「探し回ったんだぞ! ケーキはどうした?」

私は手ぶらの自分を一瞥した。

「捨てたわ」

「捨てた!? あの店の予約取るのがどれだけ大変か知ってんのかよ! お前が最高のケーキ持ってくるって、みんなに言っちゃったんだぞ!」

愛理が彼の袖を引く。

「千明くん、怒らないで……。詩織ちゃんも、何か嫌なことがあったのかもしれないし」

彼女は私に向き直った。

「実家で何かあったの? 目が真っ赤だよ……」

千明の怒りの矛先が変わる。

「また親と喧嘩か? 何度も言ってるだろ、あんな古臭い考えの親なんか無視しろって! 許嫁だ? 自分が悲劇のヒロインか何かだと思ってんのかよ」

愛理がまた千明の袖をそっと引く。

「千明くん、そんな言い方……」

彼女は私を見た。その瞳には、一瞬、嫉妬と憎悪が走った。

「実は私、詩織ちゃんが羨ましいの」

声は弱々しいが、言葉の一つ一つが鋭利な刃物のようだった。

「愛してくれる両親がいて、成績も良くて、先生やクラスのみんなに好かれてて。私なんて……小さい頃から誰にも必要とされなかった。誰も気にかけてくれなかった……」

涙が頬を伝う。

「千明くんに会うまで、誰にも優しくされたことなんてなかった。だから私、千明くんのためなら何だってできるの」

千明は彼女を庇うように抱き寄せた。

「泣くなよ。お前には俺がいるだろ」

私はその茶番を静かに見つめた。

「……泣き終わった?」

千明が目を瞬かせる。

「終わったなら、どいて」

私はドアの鍵を開けるため背を向けた。陶器の人形が揺れる。

千明がキーホルダーに気づき、眉をひそめた。

「まだそんなダサいもん付けてんのか。言っただろ、お前に安っぽいオモチャは似合わないって」

無視してドアを開ける。

「待てよ!」

千明が何かを思い出した。

「来週の水曜、うちの親が来るんだ。飯一緒に行くって約束したよな。あの青いドレス着てこいよ。あと、母さんがお前のレモンタルト気に入ってるから、焼いてくるの忘れんな」

命令口調。当然のように要求する態度。

「千明」

背を向けたまま名を呼ぶ。

「あ?」

「レモンタルトくらい、自分で焼けるようになりなさいよ」

私は部屋に入り、ドアを閉めた。直後に響くドアを叩く音と、愛理の白々しいなだめる声を完全にシャットアウトして。

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