第3章
朝の七時。目の下に隈を作って、私はマンションのロビーに立っていた。一睡もしていない。けれど、頭はかつてないほど冴え渡っている。
バッグから書類の詰まった封筒を取り出す。賃貸借契約の中途解約通知書だ。契約期間はあと三ヶ月残っているけれど、もう一日だってここにはいられない。
私は壁にある管理会社のポストへと歩み寄った。
昨夜、ドアの横に積み上げられたスーツケースを見つめながら、私はようやく悟ったのだ。もう終わりなんだ、と。
封筒は乾いた音を立ててポストに吸い込まれていった。
二年契約を三ヶ月残しての解約。敷金は戻ってこないだろうが、そんなことはどうでもいい。
千明とこの空間を共有し続ける苦痛に比べれば、少しばかりのお金なんて。
踵を返したその時、背後でエレベーターのドアが開いた。
「詩織」
千明がエレベーターの入り口に立っていた。髪は乱れ、手には紙袋を提げている。
「本当に出ていくのか? 昨日の俺は言い過ぎた」
彼は歩み寄ってきた。その声色は、昨日とは打って変わって優しい。
私は何も答えなかった。
「ほら」
彼は紙袋を差し出した。
「お前の好きなクロワッサンだ。焼きたてだぞ」
バターの香ばしい匂いが漂う。かつて私が徹夜で勉強していた頃、彼はよくこうして翌日に買ってきてくれたものだ。あの頃、私はそれを愛だと思っていた。
今、その袋を受け取っても、ただ重みを感じるだけだ。
「朝ごはんなら、もう食べたわ」
私の冷静な顔を見て、千明の表情に焦りが滲んだ。
「解約なんてすることないだろ。次の更新料なら俺が一部負担するし……」
「千明!」
愛理が二つのコーヒーカップを手に、愛らしい笑顔を浮かべて駆け寄ってきた。
「やっぱりここにいた! コーヒー買ってきたよ――」
私に気づくと、彼女の笑顔は凍りつき、途端に余所余所しいものに変わった。
「詩織さんもいたんだ……ごめんなさい、話してるって知らなくて」
彼女は千明に一つカップを渡し、もう一つを胸に抱くように持った。
「これ私の分だったけど、詩織さん、飲む……?」
「いらない」
私はロビーの時計を一瞥した。
「用事があるから」
バッグを掴み、正面玄関へと直進する。
「詩織!」
千明が追いかけてくる。
「送っていくよ」
「結構よ」
愛理もついてきた。
「詩織さん、もう千明のこと許してあげて。昨日の夜もよく眠れなかったみたいで、ずっと詩織さんのこと……」
私は彼女を無視して歩き続けた。
愛理は小走りで私の前に回り込み、行く手を阻んだ。
彼女を避けようとした瞬間、その瞳が一瞬揺らめくのを私は見逃さなかった。次の瞬間、彼女は小さく「あっ」と声を上げ、コーヒーカップを自分の方へ傾けた――。
茶色の液体が白いセーターにぶちまけられ、彼女は大袈裟によろめいて数歩後退った。
カップが床に落ちて乾いた音を立てる。
「痛っ……」
愛理は胸元を押さえ、即座に目に涙を浮かべた。
「詩織さん、ひどい……どうして押すの?」
私は立ち尽くした。押した? 指一本触れていないのに。
千明が慌てて愛理を支える。
「どうした? どこか痛むか?」
「押されたの……コーヒー、すごく熱くて……」
愛理は嗚咽を漏らしながら、濡れたセーターを指差した。
「千明、私ただ詩織さんに謝ろうと思っただけなのに。なんで突き飛ばしたりするの?」
千明の表情が瞬時に曇り、私を睨みつけた。
「なんで突き飛ばしたんだ」
「やってな――」
「まだ嘘をつくのか!」
千明は私の言葉を遮り、愛理の濡れたセーターを指差した。
「愛理はせっかくコーヒーを買ってきてくれたんだぞ。気に入らないならそれでもいいが、なんで突き飛ばす必要があるんだ」
早起きの住人たちが、ロビーで何事かとこちらを見始めている。管理人も受付から顔をのぞかせていた。
涙に濡れた愛理の顔と、怒りに満ちた千明の顔を交互に見る。
ああ、そういうことか。彼女は私が想像していたよりずっと役者だったらしい。
「謝れ!」
千明が厳しく言い放つ。
「今すぐ愛理に謝るんだ!」
数秒間、彼らを静かに見つめ返し――私はふっと笑みをこぼした。
「謝れって?」
「当たり前だろ! お前が悪いんだから――」
「わかった」
私は頷き、まだ千明が口をつけていないコーヒーカップへと歩み寄った。
「確かに、謝るべきね」
千明は私が素直に従うと思い、わずかに警戒を解いた。
次の瞬間、私はそのコーヒーを掴み取ると、愛理の顔面めがけて思い切りぶちまけた。
「さて」
恐怖に引きつり、コーヒーが滴り落ちる愛理の顔を見下ろして、私は言った。
「これで本当に私がやったわ。ごめんなさい」
千明も愛理も、あまりの出来事に思考が追いつかず、凍りついている。
「ほら、謝ったでしょ。じゃあね」
私はバッグを拾い上げ、そのままロビーを出て行った。
背後から愛理の悲鳴と千明の怒号が聞こえてきたが、私は一度も振り返らなかった。
どうやら茶番劇に幕を下ろすには、全員に「公平」な体験をさせてやるのが一番らしい。
